<?xml version="1.0" encoding="UTF-8" ?>
<rss version="2.0" xmlns:blogChannel="http://backend.userland.com/blogChannelModule" >
  <channel>
  <title>Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編</title>
  <link>http://trounoir.syoyu.net/</link>
  <atom10:link xmlns:atom10="http://www.w3.org/2005/Atom" rel="self" type="application/rss+xml" href="http://trounoir.syoyu.net/RSS/" />
  <description>　　　汝自己のために何の偶像をも彫むべからず</description>
  <lastBuildDate>Sun, 29 Mar 2026 02:19:22 GMT</lastBuildDate>
  <language>ja</language>
  <copyright>© Ninja Tools Inc.</copyright>
  <atom10:link xmlns:atom10="http://www.w3.org/2005/Atom" rel="hub" href="http://pubsubhubbub.appspot.com/" />

    <item>
    <title>( ﾟДﾟ)＜Re: 未知の「他」の文法</title>
    <description>
    <![CDATA[「交換不能なものに憧れながら、誰もが自分を交換可能なものとして差し出すしかない構造が現代であって、比喩的には娼婦と客の関係がすべてを覆っている　かといって性差を復活させて差異を無理くり作り出すのも不毛　そこにある差異を地道に育てるしかないと私は思うけど、そうしたとてそれに気付く人がどれくらいいるのか<br />
&mdash;<br />
言葉を他者を操作するものとしか思っていない人のなんと多いことか　スマートな支配が頭の良さとして憧れの対象になる時代に私たちはいて、対抗しようとする人もまたお手軽な支配に飛びついては自分の感情を他者に認めさせることばかり考える<br />
&mdash;<br />
推しだってアディクションでしょ、「がんばる」しかないことの空虚を誰かに押し付けて、それでまた自分を不可能な享楽に追いやる、その繰り返し<br />
&mdash;<br />
自分へのサディズムと他者へのサディズムが無限に循環してる　いかにそれを祝祭的に見せたところで何も変わらない　変わらない苦痛、変わらない日常があるだけ<br />
&mdash;<br />
今の世の中を見渡したときに、制度を批判することが制度からの庇護を求める欲求にまた合流していくっていうサイクルがあって、でも優しい父性のほどほどな去勢こそがこういった磁場を支えているとすれば、必要なのはむしろまっすぐつながろうとすること、つながろうとすることによって切断する身振りじゃないかと思った<br />
&mdash;<br />
浅田彰が西洋美術館の現代アートの展示に生命維持装置につながれた未熟児のようと言ってたのがじわじわ効いてきた　新しい制度やつながりの文法を立ち上げない行為に何の意味があるのだろう　パターナリズムのバリエーションを増やしてるだけだ<br />
&mdash;<br />
法哲学と法哲学の対話は、SF的な想定が入ってきたりして性格の悪いオタクに刺さりそうな要素があっておもしろい　ある体系を考えて、それを現実に適用したときの振る舞いを考える能力はこれからますます重要になると思う<br />
文系的な想像力は目の前の事象をとらえる力は強いけど、その展望を見通す力は弱くなりがち　理系的な構想力は体系の完璧さのためにノイズを切り捨てがち　両方の交点に、目の前の事象から出発して、その揺らぎも捉えながら未来を構想し、論理的な思考によって未定な領域を定めつつ、空白への感度をまた構想にフィードバックするような想像力が生まれてくるのだと思う」<br />
（conceptionfork.bsky.social「Bluesky拾遺」）]]>
    </description>
    <category>excerptions</category>
    <link>http://trounoir.syoyu.net/excerpt/768</link>
    <pubDate>Sun, 29 Mar 2026 02:19:22 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">trounoir.syoyu.net://entry/768</guid>
  </item>
    <item>
    <title>( ﾟДﾟ)＜未知の「他」の文法</title>
    <description>
    <![CDATA[「君らのは欲望まるだしの子供のやり方だ。<br />
未知のものに対した時、<br />
それを自分のまんまで全受容もしくは全否定したい。<br />
権威をけなしたくて、権威が大好きだ。<br />
それでいて自分は変わりたくない。<br />
<br />
よく考えてごらん。自分を納得させる論法はいつも同じだ。<br />
<br />
僕が理解できないのは、<br />
僕に理解させれくれないような対象が悪い。<br />
状況が悪い。紹介者が悪い。価値がないんだ。<br />
だからそこには「重要性」や「あるべき姿」がないにきまってる。<br />
僕にはそれらを得る資格があるのに&hellip;&hellip;<br />
<br />
「重要性」や「あるべき姿」って何だ？<br />
それは「僕」にとって基準にすぎない。<br />
あくまで「僕」に愛されるべきサイズの幻想だ。<br />
<br />
その時点で、未知の「他」からは永遠に受け損ないつづけている。<br />
<br />
「ああ、フーコーね」<br />
「元の意味はググればこういう意味ね。ハイ分かった」<br />
それは雑学。<br />
点でしかない。<br />
点をいくら増やしても線は延びず、絵が分からない。<br />
<br />
学ぶってどういうことだ？<br />
点の数を数えることじゃない。<br />
そんなことは試験や決済の前にやればいい。<br />
<br />
点と点がいかに結ばれているかを体験することだ。<br />
<br />
そこにおける知識の文法、関係性を知るということ。<br />
どんなささいなことでもそこで世界の次数が上がる。<br />
絵が分かるようになる。<br />
<br />
ズレている、それは相手か？　時代か？　世界か？　&hellip;&hellip;すべて他人のせいか？ 」<br />
（nos/unspiritualized「BBS拾遺」）]]>
    </description>
    <category>excerptions</category>
    <link>http://trounoir.syoyu.net/excerpt/767</link>
    <pubDate>Sun, 29 Mar 2026 02:18:54 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">trounoir.syoyu.net://entry/767</guid>
  </item>
    <item>
    <title>( ﾟДﾟ)＜Re: 暴力の不可避性＆暴力批判</title>
    <description>
    <![CDATA[「&hellip;&hellip;しかし、繰り返すが、問題は、論理が「最悪のもの」に扉を開いているかどうか、ではない。そこに通じない論理をいかにして作り上げるか、ではないのだ。我々はこの世界に存在するや否や、暴力であり続けるほかないのだという現実をどこまで洞察しているか、なのである。<br />
　自己は自己自身を暴力にせずにいることができない。この現実を正視するデリダはその暴力を精査してそこに襞を見出した。自己<span style="text-decoration: underline;">を</span>暴力にするとは、同時にそのような自己<span style="text-decoration: underline;">に</span>暴力を行使することでもあるのだ。同じ一つの暴力がそれ自身と異なりそれ自身から遅延する他者を自己自身のうちに分岐させ、その他者が元の暴力的な自己に暴力を振るうのである（『アーカイヴの病』邦訳一三一頁）。神がアブラハムにまず、イサクを「燔祭として献ぐべし」と命じた後に「汝の手を童子に按くるなかれ〔手を下すな〕」と命じたように。アブラハムは自らを全身、暴力にしたまさにその瞬間に、その暴力から遅れて派生した他者がその暴力そのものに暴力を振るうにまかせることによって、イサクを犠牲にする暴力を制止した。差延とは「彼を燔祭として献ぐべし」という命令から「汝の手を童子に按くるなかれ」という命令がズレ出て来るその差異であり遅延である。この世界では、この暴力だけが暴力を制止する。アブラハムの場合、前者の暴力は後者の暴力を伴った。他者の顔がまず憤激と暴力を引き起こすからこそその同じ顔が暴力を制止し得るのだ。前者なくして後者はない。しかし、前者があれば、必ず後者があるわけではない。前者の暴力はイサクを殺害してしまうかもしれない。デリダは、日々、自分が自らを暴力にしているその日常的暴力が、たとえば中東におけるイサクの殺害と無関係にではなく下されていると感じていた。その暴力と無縁なところに自分がいるとは、またそういう場所がこの世界のどこかにありうるとも考えなかった。自分自身が下す前者の暴力は後者の暴力を惹起せず、イスラエルの、あるいは「最終解決」の暴力と同じ犠牲を引き起こし得る。そのような憤激（つまずき）の可能性の中で自らを暴力にすることをやめられない以上、後者の暴力が生起することを祈りつつも、自らをとらえる前者の暴力には身震いし、おののかずにはいられない。デリダが問題にしていたのは、「最悪のもの」との間にありうるこの共謀を自覚して、すなわち憤激の可能性の中で「決定」が下されているかどうか、だ。さらにいえば、その「決定」が、たんに主体的なものではなく、「最悪の暴力」を喚起する「顔」との関係において、さながら「あなたは殺してはならない」という命令のように、向こう側からやって来た他律的なものであるかどうか、なのだ。」<br />
（山城むつみ「ベンヤミン再読──運命的暴力と脱措定」）]]>
    </description>
    <category>excerptions</category>
    <link>http://trounoir.syoyu.net/excerpt/766</link>
    <pubDate>Mon, 16 Mar 2026 02:26:58 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">trounoir.syoyu.net://entry/766</guid>
  </item>
    <item>
    <title>( ﾟДﾟ)＜自らを暴力にする／自らに暴力をする</title>
    <description>
    <![CDATA[「Ⅰ　一切の暴力の根源には、何らかの目的の為の手段として使用するという枠内に決してとどまらない暴力があるのだ。「正義」を掲げ、悪に対する制裁、懲罰、矯正、教育、躾、等々として行使される暴力であっても、その根源では、その表明自体を目的としその顕現そのものを享楽する暴力が作動している。<br />
Ⅱ　ベンヤミンは暴力のこの根源を「運命的暴力」と呼んだ。この根源的暴力の対象となった相手は、暴力の結果として罪ある者となる。暴力は相手が罪ある者だからその結果として行使されるのではない。逆である。まず行使され、発動されたその暴力が結果として相手を罪ある者にするのだ。<br />
Ⅲ　この運命的暴力が、あらゆる歴史の根源にある。歴史に運命的暴力を免れている純粋な領域などない。一切はそれに汚染されている。<br />
Ⅳ　神話的暴力と別に神的暴力という純粋な暴力があるのではない。運命的暴力があるだけだ。それが自己を二重化しているだけなのだ。<br />
Ⅴ　だが、その暴力が〈自ら<span style="text-decoration: underline;">を</span>暴力にする（se faire violence）〉そのことがそのまま〈自ら<span style="text-decoration: underline;">に</span>暴力をする（se faire violence）〉瞬間がある。暴力自身がそれ自身の中に、それ自身と異なり、それ自身から遅延する自己を分岐し、それが前者の暴力に対して暴力を行使する瞬間があるのだ。その瞬間、その暴力の内部に乖離として断念／放棄が出来する。ベンヤミンはそれを「脱措定」と呼んだ。<br />
Ⅵ　それは運命的暴力の中で言語として、そしてその言語において生起することがある。」<br />
（山城むつみ「ベンヤミンのメキシコ学──運命的暴力と翻訳」）]]>
    </description>
    <category>excerptions</category>
    <link>http://trounoir.syoyu.net/excerpt/765</link>
    <pubDate>Mon, 16 Mar 2026 02:26:15 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">trounoir.syoyu.net://entry/765</guid>
  </item>
    <item>
    <title>( ﾟДﾟ)＜我々がドストエフスキーを読む困難はここに極まる</title>
    <description>
    <![CDATA[「だが、対話におけるイワンのアクセントがそもそも「すべてが許されている」という言葉にはならなかったのだとしたら弁証論の一切が覆ってしまう。じっさい、それに先行する「もし不死がないなら」にアクセントを置いて読めば、イワンの論理が抱え込んでいる悩みの声が微かに聴き取れる。彼の悩みは、不死（これもソグラーシエ〔同意〕だ）を信じたいが、信じようとすると信じ損ねずにはいられないところにあるのだ。調和（これもソグラーシエだ）に対する彼の強烈な異和と拒絶はこのラズノグラーシエ〔異和：同意を促してくる心に染み透る言葉に対して声を合わせ<span style="text-decoration: underline;">損ねる</span>こと〕に発しているのである。<br />
　たとえば、かりにイワンに説得された私が同調してこんな風にくちばしったら彼はどんな顔をするか。人類の、とりわけこどもたちが甘受してきた、また今現在も甘受しているいわれなき苦しみを踏まえて成り立つ調和への入場券は私も返上する、私は不死だとか調和だとか高邁な理念なんかとは一緒にいたくない、人間の、こどもたちの苦しみと一緒にいたい、と。そう言った瞬間、イワンはきっと不快な、嘲笑うような顔をこちらに向けるだろう。肯定的にであろうと否定的にであろうと、それについて相手が何かを言えば、彼の言葉はさっと表情を変える。論理そのものよりもその悩みを読むとは、こちらの同意によって表情を変えるこういう言葉として彼の論理を読むことだ。&hellip;&hellip;彼の心がそういう特質を持つ心だということを察していたゾシマ長老は、イワンの悩みのアクセントが「もし不死がないなら」という一点に置かれていることを最初から聴き取っていた。<br />
　&hellip;&hellip;&hellip;&hellip;<br />
　あのイワンがゾシマとのこの対話においては、終始一貫して、神妙とも奇妙ともつかない様子で、赤面したり不可解な笑みを浮かべたりしながら話していることを補記しておく。同席した人々も一瞬は鳴りをひそめたこの神妙さ、奇妙さ。それを理解することに比べれば、「すべてが許されている」の論理を理解することは難しいことではない。他方、右の対話でイワンの浮かべる微笑を想像することは限りなく難しい。だが、彼の悩みはそこにこそあらわれているのだ。イワンのディアレクティクは哲学や思想があれば綜合に導けるだろう。だが、彼の悩みはちがう。それは、作品を読み返すことによってかろうじてたどれる性質のものだ。<br />
　不死という問題に関してイワンにはっきりしているのは、これを否定的な方向に解決することはできないということだ。むろん、不死を論駁すること（ニェソグラーシエ〔不同意〕）は易しい。イワンにその易しいことができないはずはない。しかし、厄介なのは、それを理論的に全否定しても一向に解決しないものがどうしようもなく残るということなのだ。それは何か。不死を信じたいという不可解な、しかしやみがたい欲動である。だから、問題は肯定的な方向（ソグラーシエ）にしか解決され得ない。だが、ここでも留意すべきは、にもかかわらず、彼にはそれもできないということだ。信じたいと思わずにいることはできないが、信じることもできない。彼の悩みは、そこから生じるラズノグラーシエとしてあるのだ。ニェソグラーシエとしてあるのではない。イワンは不死を懐疑してみせたのではないのである。<br />
　&hellip;&hellip;&hellip;&hellip;<br />
　だが、注意しよう。ラズノグラーシエの位相が見落とされるには理由があるのだ。ゾシマが言うように、不死があるかないかというような問題を誰もが悩めるわけではない。たとえば、サルトルが、「もし不死がないなら」という条件節にイワンが隠した悩みのアクセントを聞き逃して「すべてが許されている」という命題から自由をめぐる独創的な解釈（人間は自由という刑に処されている）を導き出したのは（『実存主義とは何か』）、彼が不注意な読者だったからではなく、最初からこの悩みをイワンと共有していなかったからだろう。じっさい、不死という途轍もなく法外な問題について誰が本気で悩みうるだろう。論駁するも何も、問題にすることすらできないというのが大方の現実ではないか。<br />
　&hellip;&hellip;とはいえ、問いへの被爆を感知する鋭敏な計器を備えた人々もいる。いや、厳密には問いが降り注ぐのではない。何が降り注いでいるのか、光か、風か、精霊か、私は知らない。だが、それが検知されるときには必ず問いとして、ただ問いとしてのみ検出されるというのが正確なところなのだろう。「じゃあ言ってみろ、神はあるのかないのか」、「では、不死はあるのか、まぁ、どんなものでもいい、ちょっぴり、ほんのちょっぴりでもいいんだ」。イワン、アリョーシャ、ミーチャ（ドミートリィ）は当然としても、彼らの父フョードルもまた鋭敏な検知器を備えた人のひとりだったのである。イワンのように知性的でなくとも、アリョーシャのように宗教的でなくとも、またミーチャのように情熱的でなくとも、つまり、どれほど卑劣、貪欲、横暴、淫蕩であろうと、そうした性格には一切関係なく、神＝自由＝不死をめぐる問いに自分が刺しつらぬかれているのを感受せずにはいられないカラマーゾフ的な人々がいるのだ。<br />
　ところが、他方において厄介なことに、斥けることのできないこの宇宙線はまた、人間には<span style="text-decoration: underline;">答えることができない</span>問いでもある。答えれば正解は、相容れない二枚の板に割れてしまう。この地上では、降り注ぐ問いを検知して神＝自由＝不死について肯定的に答えようとテーゼを立てるまさにそのことが、それを否定するアンチテーゼを同時に立ててしまうことにならざるをえないのだ。例の悪魔が「《否定する》役」を振られていた理由はそこにある。<br />
　&hellip;&hellip;&hellip;&hellip;<br />
　この問いに刺しつらぬかれ、理知はもちろん心情さえ、うちくだかれた彼らは答えようとして、ただ分裂し、悩み、うめき、そして誤るほかない。だが、信仰とは、そういうことなのではないか。少なくとも、答えを見出すことではないはずだ。むしろ、ただただ問われることなのだろう。外から来る解けない問い、解いてしまったらウソになるような問いに曝され続けること、それが己を刺しつらぬき、うちくだくのに耐え続けることなのだろう。不合理だから信じるのではない。信じるから不合理なのだ。より正確には、信じる／信じないというこちらの心の問題以前にすでにつねに信じているから不合理なのだ。その不合理を不合理のままに包摂することが問題になるのは、信じることの結果ではあっても理由にはなり得ない。二律背反を矛盾のまま包容することによって信仰に至るのではなく、信じているからそれを包容するのだろう。<br />
　私はここでも他人事として書いているつもりはない。我々がドストエフスキーを読む難しさは右の困難に極まる。さしあたりこの作家の例の悪魔的喜劇性をとらえる難しさもこの困難に由来すると痛感している。」<br />
（山城むつみ『ドストエフスキー』）]]>
    </description>
    <category>excerptions</category>
    <link>http://trounoir.syoyu.net/excerpt/764</link>
    <pubDate>Wed, 11 Mar 2026 13:25:41 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">trounoir.syoyu.net://entry/764</guid>
  </item>
    <item>
    <title>( ﾟДﾟ)＜反戦ナルシシズム</title>
    <description>
    <![CDATA[「たとえば、文学者がおこなったアピールの中でも世間の耳目をあつめた、一九九一年三月十八日付『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「憂える日本市民からの反戦の訴え」という意見広告では、三十年前とみまごう「反戦」メッセージが何の疑問もなく語られている。&hellip;&hellip;<br />
　&hellip;&hellip;「外交」的な視点以前に、この意見広告には多くの問題点が存在している。<br />
　まず広告の中央の写真が、なぜアメリカ大使館の前で「今すぐ戦争をやめろ！」とかいた横断幕をもった女性たちなのかが、わからない。<br />
「国際紛争は、武力では解決しえない」と、アメリカ人にたいして本気で主張し、説得するならば、もっと効果的な画像はいくらでもあるのではないだろうか。<br />
「外交」的には好ましくないかもしれないが、爆撃されたバグダッドの光景や、焼けだされた市民といった、相手に関心をもたせ、こちらの意図を伝えられるような写真の選択があったはずである。<br />
　どこかのおばさんたちが、よくわからない言語でかいた布切れをかかえている写真に、何の意味があるのだろうか。<br />
　この広告には、停戦直後の、圧倒的多数の米市民がアメリカ政府の軍事行動を支持していた時点で、相手の「感情を逆なで」するような意見をのべるという緊張感が欠けている。まったく自分たちと違う意見をもっている他人に話しかけるのならば、相応のやり方というものがあるはずだ。<br />
　対話の基本的な心がまえの欠如は、本文にも随所にみいだすことができるが、とくに「日本憲法の精神」と題する段ははなはだしい。<br />
　アメリカ人に戦争反対を訴える広告で、自国の憲法を論拠にして軍事行動への批判を展開するというのは、かなり常識を欠いた発想である。アメリカに日本の「貢献不足」を弁解し、寛容な理解を乞うといったたぐいの文章ならば、憲法を国際社会での行動のアリバイにするという論理はありうるかもしれない。<br />
　しかし、その国では国法上ゆるされている戦争行動を、自国の憲法によって批判し、「この憲法のおかげで、日本の軍隊は四十五年にわたって人命を奪っていない」などと自慢して、「あらゆる国において、日本憲法の精神が、真剣に検討され、うけいれられるべきだ」と強調するのは、相手を説得するという視点からみても、何の意味もないのではないだろうか。自国の法律の精神や価値観により、他国の行動を非難するのは、無意味をとおりこして、一種の傲慢さを感じさせるだけだろう。実際、写真の選択から「平和憲法」論にいたるまで、この広告は不思議なナルシシズムを発散している。<br />
　すくなくとも、アメリカ市民との対話を希望するならば、日本にもアメリカにも固有でない、両者共通の立場、あるいは「普遍的」と思われる立場にたって議論するべきではないか。<br />
　こう指摘すると「憂える日本市民」たちは、いや「憲法九条」は普遍的な原理なのだ、だからアメリカ人にもすすめるのだ、と言うにちがいない。<br />
　しかし、その「普遍性」も憲法を戴く日本がそう主張しているだけで、アメリカや他の国の憲法にもそれなりに「普遍」的で素晴らしいことがかいてある。それでも自分の国が一番だ、と主張するならば、礼儀をわきまえないと言われても仕方がない。<br />
　すくなくとも言葉をあつかう仕事に携わるものが、わざわざ広告掲載料を払ってまで他人に話しかけるならば、写真にしても、論説にしても、相手の立場や意識を考えて理解しやすくする配慮をすべきではないか。このことは、別にアメリカの神経を「逆なでするな」ということではない。「逆なで」するならば、きちんと相手にもそれとわかるように「逆なで」してほしい、と言っているのである。」<br />
（福田和也「「反戦」声明の虚しさ」）]]>
    </description>
    <category>excerptions</category>
    <link>http://trounoir.syoyu.net/excerpt/763</link>
    <pubDate>Mon, 02 Mar 2026 17:06:33 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">trounoir.syoyu.net://entry/763</guid>
  </item>
    <item>
    <title>( ﾟДﾟ)＜記憶の全てを怨恨と同一視すべきではない</title>
    <description>
    <![CDATA[「<strong>鎌田</strong>　政治嫌いは嫌いのままで積極的に政治に関わるのが根本原則だとは思います。でもその場合の「嫌い」は、ただ他人の旧悪を暴きその悪口を言う、というのとは違う水準の記憶から生じているとぼくは思う。全てを記憶しているというより、そうはできないことの記憶とか、外側に立ったつもりで実は内側にいたという種類の記憶です。記憶の全てを怨恨と同一視すべきではない。むしろそういう考え方をする連中こそ、都合の悪いときは、他人を赦せ、寛容にやれ、と叫ぶくせに、小さな権力を握ると自分自身が怨恨で動くでしょうね。現実には無力でも、ぼくはそういう連中を一人として赦したくはない。何より体がいうことをきかない。もちろん、記憶と無関係に誰とでも提携して運動を展開してゆくという水準はあるけれど、なぜこうなってしまったのかを意識しないまま先に進むことはできないと思います。」<br />
（浅田彰&times;柄谷行人&times;鎌田哲哉&times;山城むつみ「批評と運動」）]]>
    </description>
    <category>excerptions</category>
    <link>http://trounoir.syoyu.net/excerpt/762</link>
    <pubDate>Mon, 02 Mar 2026 17:06:06 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">trounoir.syoyu.net://entry/762</guid>
  </item>
    <item>
    <title>( ﾟДﾟ)＜パパ戦争止めてこれなかったわ</title>
    <description>
    <![CDATA[「Ｇ・フリードマンの『来るべき日米戦争』を読んで苦笑を禁じえなかったのは、この点についてだった。<br />
　アメリカは海上戦力で日本を屈服させる必要はない。アメリカが日本から、もしくはアジア地域から撤退するだけで、日本はシーレーンを維持できなくなってしまう。あるいはアメリカが安保条約を廃棄して中立を宣言するだけで、日本は自国を防衛できなくなる。<br />
　かねてから一部の識者が指摘しつづけてきたように、対潜水艦哨戒と機雷掃海は超一流でも、攻撃能力のまったくない自衛隊に「防衛」などできるわけがない。日本の自衛隊は、ガードだけしかできないボクサーのようなもので、どんなに弱い相手でも、殴り返されるリスクなしにパンチをくりだすことができる。<br />
　自衛隊は、第七艦隊をはじめとする米軍とセットになってはじめて「軍事」力になりうる。いくらイージス艦をもち、ＡWＡＣＳ（空中警戒管制機）を飛ばしても、攻撃能力がなければ、日本は軍事的な空白にすぎない。<br />
　加うるに、主要装備をアメリカ製に頼っているから、アメリカが中立化して部品が入手できなくなれば、経済封鎖下のイラクと大してかわらない状況になってしまう。<br />
　たしかに、最先端技術を使った国産兵器も多少はある。しかし、実際に戦場で使われたことのない兵器の信頼性など、零に等しい。<br />
　もしも本当に国産の兵器を真面目に作る気があるならば、武器三原則を廃棄して兵器の輸出を始めるべきだ。自分で使う機会がないのなら、人に使ってみてもらうのは当然である。しかし武器輸出になると、日頃防衛談義に熱心な政治家さえ二の足を踏むだろう。武器を輸出することは、そのまま間接的に戦争に参加することであり、人を殺すことだからだ。<br />
　しかし、いくらハイテクを身にまとい、ディスプレーと電子機器が溢れていても、兵器は人を殺す道具であることにかわりない。人を殺す勇気がないなら、武器など作らないほうがいい。みずから手を汚す覚悟もなく、ただ兵器の性能を自慢しているだけならば、「軍事おたく」とまったくかわらない。国防論者たちもこの点については、「現実」の戦争から乖離していることにおいて反戦運動家と同等である。<br />
　もしも本当に国を自力で守る気があるのならば、ハイテク兵器のカタログデータを皮算用するよりも、戦後日本人に巣くっている心理的タブーを破って武器輸出を試みるべきだろう。それは本当におぞましいことだ。しかしわれわれはおぞましい生き物なのである。無害で清潔な存在ではない。ただ今までは、アメリカがおぞましい事柄を引き受けてくれていたから、清潔だと勘違いできただけだ。<br />
　だがはたして、日本人にそこまで踏み切る勇気があるか、仮に世論調査をおこなえば、圧倒的多数が自力での国防に反対することだろう。だからといって、それは今後もわれわれが手を汚さずにすむことを意味するものではない。いやむしろ、再軍備以上に多いコストがかかり、手を汚さなければならなくなるかもしれない。大切なのは、自力による国防をめざすにせよめざさないにせよ、手を汚さない道などあり得ないと知ることなのだ。」<br />
（福田和也「アジアか、アメリカか──日米安保なき世界」）]]>
    </description>
    <category>excerptions</category>
    <link>http://trounoir.syoyu.net/excerpt/761</link>
    <pubDate>Thu, 26 Feb 2026 17:44:51 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">trounoir.syoyu.net://entry/761</guid>
  </item>
    <item>
    <title>( ﾟДﾟ)＜パパ戦争止めてこようかな</title>
    <description>
    <![CDATA[「日本人の国連コンプレックスが戦争に由来しているとすれば、その核心は敗戦国としての地位だけではなく、より深く平和という観念から発する。<br />
　国連は、平和の保持を目的とすることが、国連憲章第一章第一条【目的】にうたわれている。「国際連合の目的は、次のとおりである。１、国際の平和及び安全を維持すること&hellip;&hellip;」<br />
　現在私たちの平和にたいする姿勢は、かなり独特である。たとえば広島原爆慰霊碑にしるされた「二度とあやまちをくりかえしません」といういいまわしや、アジア諸国にたいする過去への反省や贖罪という表現から、日本人は戦争という行為が、誤りであり罪であると考えていることがわかる。<br />
　もちろん、ある意味で戦争が罪であるという認識は万国共通のものである。だが日本が独特なのは、戦争の本質をこの罪悪という性格にのみ還元して、ひたすら悪いこと、あってはならないこととみなし、その外の意味を排除してしまう点にある。このような排除は日本人に、戦争を完全に現実的かつ歴史的な文脈から遊離して、観念的な倫理によってのみ考察し、解釈することを許した。<br />
　戦争が悪であるならば、罪悪をおかさなければ戦争からのがれることができる。つまり日本人は、悪いことをしなければ、戦争にまきこまれないという信仰をいだいているのだ。「二度とあやまちをくりかえしません」という文言は、「あやまち」さえおかさなければ戦争がおこらないという意味なのである。このような論理によって日本人は、善意をもって、軍縮や中立といった理想を実現すれば、戦争はおきないと信じてきた。<br />
　国際社会における平和の維持を第一の目的とする国連は、まさしくその目的によって、至上の善と理想のやどる場所とみなされる。平和が善ならば、平和を作り出す国連は、善の塊にほかならない。湾岸戦争で国民の大部分が国連に違和感をいだいたのは、正義の府である国連が、武力行使という「悪」を決議したからである。日本人にとって、あくまで平和は善であり、善によってしか平和は達成されない。<br />
　いわば日本人にとって国際連合への信仰は、二重の現実逃避なのである。一方において、日本の敗戦国としての地位と現在までの歴史的前提をうみだした第二次世界大戦という特定の戦争からの逃避があり、それをさらに戦争をめぐる政治、経済の現実全般からの逃避である「ダチョウの平和」への信仰が包含している。」<br />
（福田和也「国連外交の甘い罠」）]]>
    </description>
    <category>excerptions</category>
    <link>http://trounoir.syoyu.net/excerpt/760</link>
    <pubDate>Thu, 26 Feb 2026 17:44:18 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">trounoir.syoyu.net://entry/760</guid>
  </item>
    <item>
    <title>( ﾟДﾟ)＜だって卑怯者だもの</title>
    <description>
    <![CDATA[「卑怯というと、いまの用いられ方ですと、ずるい手を使って、ウマいことをすることだと思われていますけれど、本来の意味は少し違います。卑しくかつ怯懦であるということですね。自らの節を見すえてそれを貫く誇りもなければ、進んで責任を取る勇気と潔さもなかった今回〔1996年の在ペルー日本大使公邸占拠事件〕の日本政府のやり口は、まさに卑怯そのものでした。強い力でおどされれば、すぐに態度を変える、守るべき立場を捨てる。それが卑怯者です。<br />
　卑怯はマスメディアも同じ事です。事件解決を報じた新聞は、どれもこれも、人質の日本人は全員助かった、ゲリラは全員が射殺された、という「生命」の安否が記事の中心になっていました。そこに何の疑問もない。「正義」が貫かれたのだ、無法な力に、正当なものが勝ったのだという喜びも感動もない。それに参画しえなかったという忸怩たる思いもないのです。要するにいまの日本人には、正義の感覚が全くないことがあらためて明らかになった。<br />
「正義」だなどと言いだすと、野暮なこというな、と叱られるかもしれません。そこまで言わないにしても、今の日本人は「絶対の善なんかあるものか」と開き直ったり、「テロリズムにも倫理はある」といった空漠とした議論を展開しがちです。私が言っている正義とはもっと生々しいものです。どんなに圧力がかかっても、身を挺してでも自分の立場や価値観を貫くことが正義です。だから「卑怯」とは、その正義の反対に位置しているものです。<br />
　&hellip;&hellip;&hellip;&hellip;<br />
　ではなぜ日本人が卑怯になってしまったかですが、それは日本人が暴力というものを考えなくなってしまい、暴力に対して免疫がなくなってしまったからでしょう。日本人の想像力の中から暴力というものは完全に姿を消してしまいました。言論の自由ひとつとっても、自分の意見を貫き通すだけの覚悟、勇気があるのかということを前提にしないで、ものを言うようになってしまいました。ジャーナリズムがいい例だと思いますけれども、日本人は、何の覚悟もなくものを言っているのです。<br />
　公の場やメディアで発言をすれば、脅かされるのは当たり前であって、私ごときにだって脅迫はあります。そんなことを言ったって始まらないことです。はじめから覚悟ができていればいいのですが、それは一般の人も同じなのです。自分が暴力によって脅かされたとき、自分の尊厳をどう守るか。どうやって自分の節を曲げないで済むかという発想と覚悟が必要なのに、それがなくなってしまった。あっさりと本丸を明け渡してしまって、なんとも感じないのです。<br />
　&hellip;&hellip;&hellip;&hellip;<br />
　それではなぜ日本人が暴力を考えなくなったか。戦争に負けたこともひとつです。でも負けたとしても、もう少し名誉のある敗北の仕方もあったと思われます。吉田茂という人を私は必ずしも好きではないけれども、彼には敗者ではあるが、名誉を貫くという姿勢がはっきりとありました。それがいつの間にか日本人にはなくなってしまった。敗戦は過剰な反省ということとつながっていると思いますが、日本人は負けたことによって勝者におもねったのです。<br />
　強いものにおもねる。これが卑怯者の第一の生態です。勝者は正義であって、われわれのやったことはすべて間違っていたのだというふうになってしまった。戦ったものの名誉と、戦争犯罪という全然次元がべつなものまで、一緒くたにしてしまったのです。」<br />
（福田和也『空白の終焉へ』）]]>
    </description>
    <category>excerptions</category>
    <link>http://trounoir.syoyu.net/excerpt/759</link>
    <pubDate>Wed, 25 Feb 2026 02:56:42 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">trounoir.syoyu.net://entry/759</guid>
  </item>

    </channel>
</rss>