Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編
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汝自己のために何の偶像をも彫むべからず
ja
2024-03-19T13:03:55+09:00
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( ゚Д゚)<最後の恋愛小説2
「『チャタレー夫人の恋人』は痛ましい小説である。その理由の一つは、現代の醜状を誌す作者が、この作者の他の作品には似ず用意周到で、およそ容赦というものを感じさせないからである。ロレンスは、心中の憤怨と嫌悪をひたすら内向させ、そのものとしては小説にあからさまに表さぬままに時代の病状を具さに点検する。文学...
しかしながらロレンスは、既にコンスタンスの思いを藉り、「現代社会は狂っている。金銭と、いわゆる『愛』が最も救い難い狂者だ」と明言していた。作者がメラーズに、むしろコンスタンスを忌避させるのも、読者を焦らせて最終的に二人が結ばれる際の効果を高める術策ではない。それは、作者の心の常態の自然な反映と言うべきものである。メラーズの方言でさえ、猟番の意図においては、チャタレー卿夫人との間に故意に設けた障壁であった。コンスタンスの気紛れから孤独な生活を乱されてはかなわぬと思うメラーズは、夫人の反感を買わない程度に慇懃に接し、彼女もまた猟番の挙措に自己を忌避する趣を察知する。ただ彼女には、森が唯一の慰藉であり、「少なくともメラーズは正気で健やか」であるから、足しげく雉の孵化場に通う。……
…………
いかにもメラーズの「森」は、「生命」を新たにする場所の謂である。あたかも大災害を逃れた男女が、最も卑俗なものにすがって、「人間」を更新し未来を生み出そうとする場所である。その課題が首尾よく二人に果たせるか否かについては、作者は一切を不問に附する。他の登場人物に対してこの上なく辛辣であった作者は、この二人に対しては限りない愛情を注ぐ。つまり冷静な心で問えば、二人に人間の未来を生み出す課題が担えるか否かは、最初から答えの解りきった問である。しかし人がかりに機械の一部分ではなく、時代の指定した台詞を復唱する気のきいた精神の儡ではないとすれば、「現代」の壊滅した後に再生すべき人間の条件は、作者にとっては疑いようもなく決定していたのである。それは、最も単純で平易な、人が生きている限り片時も離れることのない「生命」に触れた人間でなければならなかった。男が男であり、女が女である紛う余地ない事実の前に、謙虚に身を委ねる醇朴な心を持った人間でなければならなかった。それ故に、二人が交りを結ぶためにはおよそいかなる動機も名分も必要ではないのである。彼らは現代文明の齎す醜さを怖れ、ようやく見出した安息の「森」に逃げ込んだ人間の末裔のごときものであるから、肉体が完うに感触に応じ、健やかに他の迎える本能が死滅していなければ、それ以外のものはむしろ不必要なのである。人の枝葉と末節が腐乱して異臭を放つ時代であれば、本源のものを在るべき場所に保って末梢を断つ叡智だけがこの時代には尊い、と作者は言いた気である。しかしロレンスは、(何度も繰返すようだが)、コニーが自らの力でその叡智を得たというふうにはこの小説を書いていない。ただ一挙に、現代の奈落に彼女を突き落して、執拗に、或る意味でサディスティックなまでにこの女性を苛んだ揚句、一つだけ逃げ道を開いてやるのである。その仕儀が小説家として残酷であると言う者には、『三色菫』や『いらくさ』の詩に窺えるように、私たちの時代は人間に何をしたかと反問する頑迷な心を彼は始終抱いている。作者が望む読者は、醜いものに憐憫を示す読者ではなく、一層これを憎む読者である。クリフォードを憐むよりは彼を憎悪して已まぬ感情が、今の時代には唯一健やかで尊いことを教えて、その惨しい心に一層優しい人間の結びつきが生じ得ることを示そうとした。それ故『チャタレー夫人の恋人』の中で作者の筆が最も温みを帯び、作者の心の感触を伝えながらコンスタンスの見知った世界に読者を導き入れる十二章終り近くの数頁は、その夢幻にも似た愉悦の実感によって作者がそれまでの苦しみを償わねばならぬ箇所である。ロレンスは言葉を重ね、イメージを連ね、執拗に優しく、一点の疑念も生まぬよう、コンスタンスの存在と読者の感性の内奥に分け入って、その精髄のところで止めを刺そうとする。
…………
一篇の象徴詩にも比すべき右の引用文で、コニーの陶酔は海になぞらえて示されている。暗い潮がうねり、巨大な波が海を分けて海底を露わにするときに、メラーズの男性の力がそれまで覆い隠されていた彼女の実体に触れて、彼女は文字通り「忘我」の境地に達する。未だ体験したことのないこの境地を、彼女は自己自身の誕生、一人の「女性」の誕生として感知するというのである。しかしさらに大切なことは、肉体と精神が新しい生の波に滌われてはじめて、彼女が一人の「男性」をも識別するということであって、このときに「人間」という名の肉をまとうものへの畏敬の念が生じることを作者は示唆している。つまり他の者との関係に入るために、人は新たに「男性」或いは「女性」として生まれねばならない。「肉の復活」とはすなわちこのことに他ならぬが、その再生がいかに困難であり、一人の人間の内部で「死」の実感を伴うほどの激しい衝撃と、それ故に本能的な反撥とを招くことについては、作者は殆どこの書では触れることがない。つまり『チャタレー夫人の恋人』のモチーフはそこにはない。それらは既に『恋する女』において、バーキンとアーシュラ、ジェラルドとグドルーンという二組の男女の「愛」の形態として示したことである。『チャタレー夫人の恋人』最終稿の作者は、コンスタンスの意識を麻痺させ、彼女の精神の葛藤を最初から不可能にした上で、彼女をただ「性」の潮の滌うにまかせるのである。
…………
人と人との繋がりの基礎に、或いは人と自然との関係の原初に、ロレンスが引用文中に窺える「畏怖」と神異の念を置いたことは明白である。言葉や観念があれ程までに嫌厭されたのは、それらが存在するものを自らの「対象」として捉え、際限なく己れに同化することによって、自他の区別を弁えぬまでに存在を毒する陥穽を本来的に有するからである。メラーズが口を閉じて一言たりとも語ろうとしない決意は、最も危いものを知る人間の平常心に他ならない。そういうメラーズの決意を了解するときに、この直後に交される会話の思いがけない展開によって、読者は『チャタレー夫人の恋人』の主題が何であるかを感得することになる。コンスタンスは、おそらくはふとした気紛れからメラーズの方言を真似る。これもまた長い引用であるが、以下十二章末尾まで引いてみる。
「旅行に出る前、一晩おれの家へ来てくれよ。来られるかね?」彼は眉を上げて彼女を眺め、膝の間に手をぶら下げた姿勢で訊ねた。
「来られるかね?」と彼女は意地悪く彼の真似をして見せた。
彼は微笑んだ。
「よう、来られるかね?」彼はくり返した。
「よう!」と彼女は彼の方言をまねて言った。
「おい!」と彼は言った。
「おい!」と彼女が繰り返した。
「そしておれと寝るんだ」と彼が言った。「そうしなくっちゃいけない。いつ来るかね?」
「いつ行くかね?」と彼女が言った。
「いや」と彼が言った。「おまえはその言葉を使っては駄目だ。それでいつ来るのかね?」
「きっと日曜日だよ」と彼女が言った。
「きっと日曜日だね! うん!」
彼は彼女を見て短く笑った。
「いや、おまえはおれの言葉の真似は出来ないさ」と彼は言った。
「なぜおれに真似が出来ないのかね?」と彼女が言った。
彼は笑った。彼女が方言を真似ると、どういうわけかひどく滑稽だった。
「じゃあ、おいで。おまえはもう帰らなくちゃいけない!」と彼は言った。
「帰らなくちゃいけないかね?」と彼女は言った。
「帰らなくちゃいけねえ、だ!」と彼は訂正して言った。
「あなたはさっき『いけない』と言ったのに、なぜ私に『いけねえ』と言わせるの?」と彼女は抗議した。「あなたは卑怯よ」
「さあ帰ろう!」と彼は言って身を屈め、彼女の顔を優しく撫でた。
「おまえは名器じゃないか。世界じゅうでおまえのがいちばんいい。おまえがその気になった時は! おまえがその気になれば!」
「名器ってなあに?」と彼女は言った。
「おまえは知らないのかね? 名器さ! そこにあるそれさ。おれがおまえの中に入る時に、それからおまえがおれをお入れる時に感じるものさ、そのことなんだよ」
「そのことなんだよ」と彼女は意地悪く言った。「ものって、それは交わりのことね」
「いや、いや! 交わりっていうのはする形のことさ。動物の交わりだ。だが名器というのはずっとそれ以上のことだ。それはおまえそのもののことなんだ。おまえは動物とは全く違ったものじゃないか? 動物も交わりはするさ! 名器というのはおまえの素晴らしさのことなんだ!」
彼女は立ち上って彼の両眼の間に接吻した。その眼は暗く、柔らかく、言い難い暖かさで、耐えられない美しさで、彼女をじっと見ていた。
「そうなの?」と彼女は言った。「あなた私を愛している?」
彼は答えずに彼女に接吻した。「おまえは帰らなくちゃならない。手伝ってやろう」と彼は言った。
彼の手は彼女のからだの曲線をしっかりと、欲望をともなわずに、だが優しく、親しく秘密の場所を辿りながら撫でた。
黄昏の中を家へ走り帰る途中、世界は夢のようだった。庭園の木立は膨れ上って潮の中で錨に引き止められた船のように揺れていた。そして屋敷に向かう斜面の膨みは生きているようであった。
一読して明らかなように、これは『チャタレー夫人の恋人』の内おそらくは唯一読者の微笑を誘う場面である。コンスタンスが戯れに方言で物言うのを聞いて猟番も微笑む。彼女はメラーズの口真似をし、メラーズは彼女に「四文字語」を用いて彼女の魅力の由来するところを語る、というのである。彼女はその「言葉」を知らないから、メラーズに教えを乞うわけであるが、二人の振舞は小児の戯れに似ており、それはそれで互いに心と躰を許した男女の閨房の睦言にも聞え、二人の性愛の歓びを逆に印象させる場面である。しかし、ラグビー邸に向かうコンスタンスにとって、「薄明」の世界が「夢」のごとくに見え、「私園の樹々は波間に停泊してうねり膨れ、邸に至る起伏のある坂は生きていた」と書かれた結びの言葉を読めば、作者の意図は既に明白であると言うべきである。すなわち二人は、他愛ない言葉をきっかけにして、人と世界の原初の関係に立ち帰っていったのである。コンスタンスの口にした素朴な方言は、あたかも人の発する最初の言語の響きを宿しもつ。言葉は未だ「存在」とその生命に触れておらず、「存在」はまた言葉と意識の作用を蒙る以前の状態にあって健やかなのである。この場面のメラーズはそれ故、「もの」に言葉を与える最初の男性である。コンスタンスはそれを嬉々として習い、己れもまた口にして名づける最初の女性である。その言葉が女性の生殖器を指す言葉であったことは、無論この小説の主題に係わることである。しかし眼目は、断るまでもなく生殖器の名称をあからさまに口にすることにはない。『チャタレー夫人の恋人』の主題は、「自然」という名の胎に孕まれたコンスタンスとメラーズという二人の人間の出生を誌すことにあるからである。二人は当然にも小児のように無心でなければならない。コンスタンスの眼前で、世界は夢幻のごとくうねり膨れ、坂でさえその固有の生命を得て生動する。すなわち『チャタレー夫人の恋人』によって、作者は一組の男女の生誕と、それによって生じた「世界」に関する一つの「神話」を残し置こうとしたのである。」
(井上義夫『ロレンス 存在の闇』)]]>
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2024-03-19T13:03:55+09:00
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( ゚Д゚)<最後の恋愛小説
「バーキンはしかし、傍らに坐したアーシュラの頑なな心を感じとって次のように考える。
アーシュラであれハーマイオニであれ、或いは他の誰であろうと、彼らがたとえこの世に存在しなくても一向に構わないと思えるときがあった。何故あれこれと思い煩うのか? 筋道の立った、充ち足りた生活を得ようとして足掻くの...
アーシュラであれハーマイオニであれ、或いは他の誰であろうと、彼らがたとえこの世に存在しなくても一向に構わないと思えるときがあった。何故あれこれと思い煩うのか? 筋道の立った、充ち足りた生活を得ようとして足掻くのか? 何故悪漢小説のように、事の赴くままに流されてゆかないのか。人と人の関係について何故思い煩うのか。
一種自堕落なバーキンの思いは、人間と人の世を捨てたいという既に見た作者の願望の反照であるが、幾分軽く投げやりに誌されている点が、逆に『恋する女』執筆時期の作者の本心からの隔たりを示している。引用文の直後に、「しかしバーキンは、未だ真摯な人生を求めるように運命づけられていた。呪われていた」という文章が現れるのはそのためである。つまり作者の心には、「愛」を厭い人間を厭い、虚ろな世界を漂うとする動きと、人に結ばれて定まりたいと願う欲求が二重に生じていたということである。しかし「愛」を捨てきれない心が作者にあったとはいえ、求めようとして「愛」が得られるものではないことも、この作家にとっては自明すぎるほど自明な前提であった。例えば「月明り」の章末尾のアーシュラが、「得も言われぬ親密さ」を欲し、バーキンを「完璧に、自分のものとして持ち」、「生命の水を喫するように」彼を「飲み下そう」と勇み立つ場面などは、滑稽と畏れを読者に同時に感じさせる場面である。アーシュラは、時に増長の極限にまで心を昂らせる女性であり、「愛」を求める同じ意思が「愛」を遠ざけるという肝腎の真理に目醒めることがないのであるが、そういうアーシュラの姿に接する読者は、予め彼女の心の重大な欠陥に気づかされているのである。それ故に作者に残された道は、「愛」を求める心のないところに「愛」の成立する可能性を見る、およそ不可能な道が考えられるのみであったと言うことができる。……
…………
「情熱の淵」や「死の精髄」という言葉によって、作者は「愛」を欲する意識さえない当人には自己自身の死としてしか表現できないつきつめた状態を思っていたはずである。しかし「私」の滅したそういう境地が、わが身の「我」はそのままにして他人の我意を憎むアーシュラにいつ訪れるか──。作者が「愛」を描き出すためには、アーシュラという作中人物が深い淵に身を投げる瞬間がどうしても必要であった。のみならず、彼女が我意を捨てることを願うバーキン自身の願望の消える瞬間もまた必須であった。その瞬間に作者の心は「愛」によって霽れるのであるが、バーキンの疑惑に違わず、アーシュラの心は頑ななまま和もうとしない。……
…………
猛々しいアーシュラの言葉は蜿蜒と続くが、バーキンは物静かに、時折言葉をさし挟む程度にとどめる。二人の応接は、明らかにバーキンの方に分があるが、バーキンが次のように考えるとき、「恋する」二人の男女はやはり同じ地点に立っていると言うべきである。
バーキンの顔に、それまでよりも明瞭な表情が現れた。確かにアーシュラの言葉は、おおむね正しかった。彼は自分自身が偏狭であり、一方でこの上なく宗教的であるにもかかわらず、他方で奇妙に堕落しているのが分った。しかしそういう彼女自身は少しでも優れているのだろうか。他の誰であれ、彼よりも優れているか?
バーキンは自分自身を省みる同じ心をアーシュラに向けざるをえない。彼にはそして、アーシュラを愛しているがために自らの欠点よりも一層鮮明に彼女の短所が見えるのである。これは読者にも馴染み深い愛する者の相克である。「愛」の意識を抱くがために、さもなければ見えない愛する者の醜さが見える。そういう「愛」の不毛な明晰さを越えようとして、「愛か憎か、或いはその双方である不可思議にして危うい親密さ」から作者は出発するのである。作者は、一組の男女の思うところをあからさまに誌し、非のうちどころないと各々が思う「愛」が、互いの「愛」に触れて崩れるさまを描かねばならない。というのも、この二人だけによっては「愛」は生じえないことを、読者の予感としても、或いは作者自身の自覚としても、予め確かめておくことがこの章にとっては必須の要件だからである。
…………
融合、融合、二人の人間の間のこの忌々しい融合というやつ。全ての女性が、殆どの男が言い張るこの融合とかいうやつも、怖ろしく胸くそ悪いものではないか。精神のであれ、情熱に火照る肉体の融合であれ、忌わしいものではないか。
アーシュラは、バーキンの手渡した指輪を投げ捨て、「漫然とした」足どりで遠去って行く。取り残されたバーキンが彼女の後ろ姿を見ながら右のように独白するとき、作者は「意識」に濁った「愛」の不純さを吐きすてていると言ってよい。つまり「愛」を一つの理想とし、その「愛」によって他者に結ばれねばならないという貪りを唾棄している。しかし「融合」はとりもなおさず「愛」のことであるから、「融合」を「忌わしい」と言うバーキンと作者が喪ったものもやはり「愛」に他ならなかった。「アーシュラの姿は小さくなった。彼女はバーキンの視野から消えたようであった。一つの暗黒が彼の心に降りた。ただ小さな意識の斑点だけが、彼のまわりを飛び交っていた」と書かれた文章は、「愛」の成就する可能性が消失したことを自覚したバーキンの心が一つの暗黒の空ろと化して、意識だけが心の外で飛び交う虚脱状態に陥ったことを示している。アーシュラとの「愛」の期待が消え去ったとき、バーキンの生涯の理想にも死に等しいものが訪れたということであるが、人の意識が善しとしたものが滅びてはじめて、「愛」を妨げるものもまた滅びるのである。ロレンスが「愛」を喚起するためにはさしあたりこれだけの過程が必要であった。つまり作者の心から、「愛」を望む心と「愛」を厭う心の双方を浄化することが必要であった。そういう無垢の魂の、願うもののない虚の空白にこそ、「愛」の訪れについての深い信念は芽生えるからである。
バーキンの心には暗黒がかぶさっていた。妄執のように続いた怖ろしい意識の瘤はいま壊れ去り、バーキンの生は、その四肢と身体にかぶさる闇のなかに溶けた。しかしいま彼の心臓には一点の不安があった。アーシュラに戻ってきて欲しかった。軽く、規則正しく、無垢に息を吸う負目ない幼児のように、バーキンは呼吸した。
アーシュラは戻ってきていた。高い生垣の下を、ゆっくりと、彼の方に向かうアーシュラが、ゆらゆらと漂ってくるのが見えた。しかしバーキンは動かず、再び見ようとはしなかった。彼はまるで安らかに睡んでいるように、完全に弛緩していた。
アーシュラは彼の前に佇み、うなだれて言った。
「あなたのために摘んできたの。何の花だと思う?」
赤紫のエリカの一房を、彼女は気づかわしげにさし出した。バーキンは、色づいたエリカの束と一本の木のような小枝、この上なく繊細な、敏感すぎるほどやさしいアーシュラの手を見た。
アーシュラは、戻ってくる道で一体何を考えたか。彼女の心理の変化は一切語られないから、これを指して読者が、作者は肝腎の場面で問題を回避したと言うのは易しいことである。しかし顧みて、この小説の十三章でアーシュラが一人でバーキンの住居を訪れるとき、既に二人が肉体の交りを結ぶ条件は整っていたのである。にもかかわらず恋するこの二人の男女は究極的に結ばれることがなかった。その原因がどこにあるかについて、「遠出」冒頭の数頁で示唆された以上、「愛」を成立させない当のものに頼ってアーシュラの翻意を明かすことは不可能なことである。何が不可能な「愛」に再び生命を吹きこんだかは、バーキンの「意識」そのものが彼から分離した事態と、アーシュラが摘んできたエリカの花と、さらには「繊細な、敏感すぎるほどやさしい」彼女の手によって語らせる外はないのである。
つまりバーキンが「愛」を求めることに絶望して忘我状態に陥った同じときに、考えられる限りの悪馬を口にしたアーシュラもまた、蹣跚と歩む道に咲いているエリカの花に意識の虚を衝かれたということである。既に見た通り、心を解くための資質に恵まれているか否かが、アーシュラと他の二人の女性を隔てる決定的な要因であった。しかも彼女の虚心に向かって語りかけるものは、人の創った芸術品ではなく自然の中に咲いた一房の花でなければならなかった。逆に言えば、彼女が自己自身の考えの正当性に依拠せず、「繊細な」手で花に触れるとき、つねに彼女はバーキンに結ばれていたのである。
このことを、『恋する女』を書いたロレンスに引き移して言えば、この時期の作者には、未だアーシュラという女性の「我執」よりもこの女性のうちに潜む人のいのちの豊かさを信じたいという烈しい願望があったということである。「愛」にまつわる醜美やその成り難さを弁える前に、「愛」をもたらさずにはおかない人と自然の生命を敬いたいという願いがあった。それ故にバーキンの四肢が茫とした闇のなかに溶けたとき、作者の心にわだかまる人の結びつきについての意識もまた無辺際の闇に消えたのである。そうしてなお、無意識のその無の空間にさえ他の人間の温もりを慕う何ものかが残るとすれば、それはもうためらいもなく「愛」であった。「愛」についての意識ではない、まして、他を随える意志ではない、そういう倨傲の与り知らぬ、単純にして素朴な人の魂の声である。何を求めると言うのではない。ただしきりに響いてくる人の生理の奥底の、幼児のごとく単純な音声である。その声に耳を傾ける者は何ごとも巧まず、質朴ないのちのままにもう一つのいのちを慕うのである。」
(井上義夫『ロレンス 存在の闇』)]]>
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2024-03-19T12:55:40+09:00
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( ゚Д゚)<Re: 小説の倫理、想起の倫理3
「最後に注意すべきことがある。神経制御に関する仮説は、脳を中央集権的で、メッセージ受け渡し装置とする描写からはほど遠いということだ。というのは、何らかの内部制御システムが、多様なサブシステムにコード化された、すべての情報に対するアクセス権をもつというイメージと、サブシステムを結合しているチャンネルを...
…………
現代の神経科学は、この手短でおおまかな少数の例からもわかるとおり、ラディカルな部分と伝統的な部分とが興味深く混じりあっている。神経での計算を、構成要素的に情報処理に基づいて分析するという、従来から重視された部分はほぼそのまま残っている。しかし、その意味はより幅広いものになっている。それはますます分権的になり、複雑な再帰的ダイナミクスの役割にも注目したシステム的理解という意味においてなのである。内的表象(内部での表現)の考え方も依然として重要な役割を果たしている。しかしその表象のイメージには、いくらか根本的な変更がなされつつある──その……理由は、物事がどのように内的に表象されるのかという問いが、その姿形を変えてしまったからである。それを変えたのは、分散的表現についてのコネクショニストの研究と、個々の神経細胞は複数の刺激の次元に沿ってチューニングされた、フィルターとして見るのがよいという認識である。ここに挙げた、分権化、再帰性、生態学的な影響、分散した多次元表象といったものの組み合わせが、表象をもつ脳のイメージになっており、これは単一的でシンボリックな内部コード(あるいは「思考の言語」)という脳の古い考えからは、はるかにかけ離れている。このイメージは表象主義であり計算主義であるが、余計な荷物をすべて取り除いて効率化されている。それによって、いままでの章で強調してきた、有機生命体と環境からなる大きなダイナミクスを調べることと、相補的なものになっているのである。」
(アンディ・クラーク『現れる存在──脳と身体と世界の再統合』)]]>
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2024-03-19T12:52:37+09:00
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http://trounoir.syoyu.net/excerpt/681
( ゚Д゚)<小説の倫理、想起の倫理3
「二葉亭の言う「勧懲小説」とは、現在で言えば、大多数のエンターテイメントにあたる。それがたとえ「勧善」ではなく「勧悪」だったとしても、何らかの「当推量」の下に書かれるすべての試みを二葉亭は一蹴した。読者を消費的に満足させる(それは往々にして突飛な状況や主題を要求することになる)のが小説の目的ではない...
…………
二葉亭〔四迷〕の大前提がエンターテイメントへの批判にあったのはすでに見た。その「当推量を定規として世の現象を説」こうとする試みの批判は描写という技術によって可能になると彼は考えていた。絓〔秀実〕それを文という意識の軸におく。坪内逍遥の戯作調も森鴎外の文語調も、口語と文語という見かけ上の違いを取り払えば、それは主人公である「私」の語りをなめらかにするものにすぎない。それはやがて「私」を語るために邪魔なものは排除し、描くべき対象はほどよく調節する技術に結実する。だが、二葉亭の描写に対する意識はそのようななめらかな「私語り」を許さない。絓はそれを二葉亭の情景描写を分析することで明らかにした。しかし、ここで重要なのは、二葉亭が描写を視覚的なものだけではなく心理にまで及ぶべきだと考えていることである。この限りで絓の議論は踏み込みが足らない。あと一歩のところで急所を逃している。
心の内を直截に写す。それが単に智的に記述されて了えば、それは説明になるだろうが、情的の潤があり響があれば、やはり一種の描写であろう。成程目付顔色などの具体的描写をして、それで心内の波瀾や葛藤を見せることも必要だが、そればかりでは十分深い所まで這入り得ない。(中略)つまり具体的描写も必要であるが、又直截な心的描写も当然為さるべきものだ。(「文談五則」)
私はこう思う。何も写生といって、狭い範囲に自ら限って、人物をも自然の景色の一点景としてのみ見ずに、寧ろ、心の景色、即ち心理状態を写生的に描き出すのも、まだ写生文の一体として面白かろうと。(「写生文についての工夫」)
二葉亭は明らかに「描写」を「具体的描写」だけでなく「心理」にも及ぶべきだと考えている。だが、さらに重要なのは、二葉亭にとって「心理」とは「意識以下の事情」にほかならないことだ。たとえば彼は森田草平の「煤煙事件」(漱石の弟子であった草平が日本最初期の女性運動家・平塚らいてうと起こした心中未遂事件)に触れて書く。
それは二人に聴いて見れば、いろいろの事を言うであろう。けれども其れを聴いたって分るものではない。否、これは本人同士にも分らないであろう。即ち、当人たちも意識していない、意識以下の種々な心理的事情が紛糾って、それに動かされているのである。 この意識以下の複雑な心理事情! それが分らない内はこの事件の真相は分らない。だから最っと材料を豊かに得て、其処を洞察し、看破して、それを明瞭にして見せたならば、成程! と初めて当人同士にも分る、と言ったような物であろうと思う。(「暗中模索の片影」)
ここで言われている心理が「内面」ではないことに注意しよう。むしろそのような「内面」の吐露が隠してしまう「意識以下の種々な心理」を引き出すことを、二葉亭は心理描写と呼んでいる。それは「本人同士にも分らない」ものであり、ゆえに第三者による分析的介入が必要になる。」
(大澤信亮「組合文学論」)]]>
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2024-03-19T12:50:11+09:00
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( ゚Д゚)<心理的自己 vs. 主体 4(インタープレイ4)
「要するに、ラスコーリニコフはこの時初めてリザヴェータについての記憶を想起できたのだ。だが、それは彼の単独の力によってではなく、「意識の自律を乱す、或る外的必然の闖入を感ずる」こと、すなわちソーニャへの抵抗関係へ引きずり出される過程を通して初めて可能になる。そして小林の記述が、一方ではフロイト的であ...
まず前者から述べる。精神分析における治療とは、大まかにいえば、症状を形成する抑圧された記憶を被分析者が分析者の助力を通して想起することである。だが、分析の過程で被分析者は常に分析者に感情転移し、過去における他者との葛藤を(精神的に想起する代りに)分析者への運動的な行為として繰り返してしまう。だがフロイトは、転移の形式をとるこの抵抗こそが抑圧のありかを暴露する可能性の条件だと考える。この点では治療は転移と反復強迫に直面し続ける過程以外の何ものでもない。「分析医は、患者が運動的な領域に向けようとする衝動を、精神的な領域の方に引きとどめるために、患者と不断の闘争態勢を取り、かくして患者が行動として発現させようとしているものを、記憶を想起するという操作によって解決することに成功すれば、われわれはそれを治療の勝利として祝うわけである。(略)患者の反復運動を制御し、これを記憶想起を起す手がかりと成す中心的な方法は、感情転移の操作である。われわれは反復強迫の権利を承認し、それをある特定の領域内で、自由に発現させておくことによって、それを無害なものに、いや、むしろ有用なものにするのである」(フロイト「想起、反復、徹底操作」)。
ここから見れば、小林の記述する「場面は、一種の犯行に始」るとは、いわば患者が分析医に感情転移することによって原光景へ逆行する事態に、「一種の自白に終る」とは、前者がこの転移関係を通して初めてその原光景を想起する事態に、それぞれ対応している。もちろんソーニャはラスコーリニコフとの「闘争態勢」にあるわけではないが、他方でフロイトの「闘争」の目標が本来は無意識から無意識への伝達にあることを我々は忘れるべきではない。「各人は自己自身の無意識のうちに、それを用いて他者の無意識のあらわれを解釈することができる道具を所有している」(フロイト「強迫神経症の素因」)。この意味で、ラスコーリニコフの無意識の根底的な批判を可能にするのは、ソーニャの無意識であってポルフィーリーの意識ではない。「パラドックスの種はソオニャが播いた」のだ。主人公にとって、想起(過去の構成)は彼自身の内省(自己反省)とは全く別の領域にあり、それは眼前の他者との現実的な関係を不可欠の条件とする。この成立を欠けば、真に倫理的と呼ぶに値する彼の以下の(告白直後の)認識は決して生じえなかった。
ラスコオリニコフはソオニャの沈黙の力の様な愛を通説に感ずるのだが、これに答える術を知らぬ。ここで彼の孤独も亦新しい暗礁に乗り上げるのである。何故俺は一人ぼっちではないのか。何故ソオニャも母親も妹も、俺の様な愛しても仕方のない奴を愛するのか。何んという俺は不幸な男だろう。「ああ、もし俺が一人ぼっちで、誰ひとり愛してくれるものもなく、俺も決して人を愛さなかったとしたら、こんな事は一切起らなかったかも知れぬ」と彼は考える──これは深い洞察である。この時この主人公は、作者の思想の核心をチラリと見る。
なぜこれが「深い洞察」であり、しかも「作者の思想の核心」だといえるのか。それは、「自分は完全に閉じた孤独にあり、それゆえに現実への転回を目指す」(自意識の球体から外部へ)という発想自体の盲点にラスコーリニコフが気付きかけているからだ。現実の主人公が、すでに犯行以前の段階で母/妹/ソーニャ/マルメラードフとの討論を欠いては自己の思考を展開できなかったこと、それは母の手紙への彼の反応を一読すれば明らかである。「絶望して自己自身であろうとする」絶望に彼が突き進んだこと自体が、「全関係が他者に依存していること」を逆説的に告げている。だが彼はいま、所与としての他者の先行性からようやく思考を始めようとする。」
(鎌田哲哉「「ドストエフスキー・ノート」の諸問題」)]]>
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2024-03-19T12:48:55+09:00
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http://trounoir.syoyu.net/excerpt/679
( ゚Д゚)<小説の倫理、想起の倫理2
「現実に、小林自身が〔ドストエフスキー・〕ノートにおいて自らの位相を「見ること」と呼んでいる。だが、誰もが意識の上ではリアルに事象を見ている以上、困難は「見ること」の小林に固有の用法を厳密に確定することにある。彼が次のように書く時、その苛立たしさは正確にヴィトゲンシュタイン(「すでに述べたように、考...
見る事が必要なのである。だが、評家は考えてしまう。(略)併し、評家は見ない、考える、ラスコオリニコフの思想とは、性格とは、と。これは危険な道である」。
「見ること」は「考えること」=「動機」や「目的」を事後的に偽造しその順序の倒錯に眼を閉ざすことではない。見ることが考えることでしかないなら、小林はその意味では何も見ていない。小林が「見る」のは、逆にこの等値が抹消する不在の何か、すなわち内省と行為の間に広がる深淵である。だがさらに重要なのは、小林が一歩を進めてこの「見ること」をフロイト的な倫理性に直結させていることだ。私の考えでは、この態度には「批評にとって他者とは何か」という問いへの、いや、我々がある種の他者に真に倫理的にふるまう時いかなる行為を余儀なくされるのか、という根本的な問いへの答えが隠されている。日本の批評において、それは小林秀雄と江藤淳における他者についての思考の差異として最も尖鋭に示される。たとえば、江藤は『門』の主人公についてこう断定する、「宗助は、(略)一切の人間的責任を回避しようとした卑劣の徒にすぎない」(『夏目漱石』)。もし批評に他者を導入することがこのタイプの倫理主義的裁断を意味するなら、我々はラスコーリニコフの行為もまた自己絶対化だというほかない。事実ポルフィーリーが彼に「空気(生活)が足りない」と言い、また『白痴』のエヴゲーニーがムイシュキンの自己への「耽溺」を批判するとき、これら全てで彼らは「考えた」のではなく他者の喪失を「見た」つもりでいるのだ(……)。
我々は、何が善で何が悪かを決めなければならない圧倒的な地点が我々の生存にあることを絶対に否定しない。その過程で、何かを見たつもりで実は何かに見られているにすぎない滑稽さを我々自身が繰り返し演じる他ないに違いない。だが、『夏目漱石』における上述の断定で、江藤ははたしてそうした地点にいたのだろうか。『成熟と喪失』を経て『昭和の文人』に至る彼の批評は、判断の過度の明晰さと引き換えに、できあいの図式をどの事柄にも無差別に適用する精神に固有の底意地の悪さだけを我々に示した。この帰結が生じたのは、彼の否定がいつも「『他者』という概念」(江藤淳「文学と私」)による裁断にとどまっていて、倫理への転回を妨げる個体の荒廃にじかに向き合う「倫理性」を遂に欠いていたからである。それに対して小林は「見ること」の側から答える、「ムイシュキンの裡には、彼と生活上の深い交渉に這入らぬ人々の観察や批評を、たとえエヴゲエニイの場合のような同情ある正しい観察や批評さえ、空しい雄弁に化して了う何ものかがある」(「『白痴』についてII」)のだ、と。
小林の異和は、ポルフィーリーやエヴゲーニーが何かを理解したかもしれないが何も試みなかった事実から生れる。一般に、他者を導入したと称する批評は、それが「正しい観察や批評」に終始する限り、狭隘で性急な言説そのもので自らの主張を自己矛盾的に裏切っている。他者性の定義と水準の不断の検証を欠くために、自己絶対化(他者喪失)の批判それ自体が粗暴な自己絶対化に陥るほかない。君には他者が見えていない、その種の「真実」を無際限に繰り返す者こそ眼前の他者を残酷に否認しているのだ。必要なのは、「概念」ではなく現実に他者に至る道なのに。それは、フロイトのいう「乱暴な分析」、分析関係の具体的な現実を無視し、瞬間的な診断に基づいて直ちに解釈を投与する性急な分析を想起させる。その結果、彼らは小林が「見る」次の光景に必然的に目を閉ざしてしまう。「今、彼の裡に現れたものは、観念でも意識でもない、それは嘗て経験した事のない悩ましい触覚であった。恐らく、作者は、読者の思想の裡にも、同じ触覚が現れる事を期待しているのである」。
なぜ「観念」や「意識」でなく「触覚」であることを強調しなければならないか。それは、主意的な努力であるかにみえる主人公の孤独が、本当は「怪物のほうが彼を解決したということ」、すなわち内省に対して不透過な受動性である事実を「見る」ためだ。」
(鎌田哲哉「「ドストエフスキー・ノート」の諸問題」)]]>
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2024-03-19T12:47:21+09:00
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http://trounoir.syoyu.net/excerpt/678
( ゚Д゚)<心理的自己 vs. 主体 3
「蓮實 フェミニティの問題に戻るんだけど、最初のフェミニスト作家は漱石でしょう。これは柄谷さんも触れておられたけれども、漱石のなかに出てくる女性像──まあ『女学雑誌』を読んだような人たちでしょう──そうした魅力的な女性像が大正期の文壇では消えてしまう。漱石一人かもしれない、あのような女性を書きえたの...
蓮實 フェミニティの問題に戻るんだけど、最初のフェミニスト作家は漱石でしょう。これは柄谷さんも触れておられたけれども、漱石のなかに出てくる女性像──まあ『女学雑誌』を読んだような人たちでしょう──そうした魅力的な女性像が大正期の文壇では消えてしまう。漱石一人かもしれない、あのような女性を書きえたのは。あんな女性の社会を書いた人はいないよ。そこから谷崎まで飛ぶわけです。
柄谷 漱石の『こゝろ』でも、先生の下宿していた家は、いわば母系家族ですよ。お嬢さんと母親しかいないところへ、二人の男を入れて、品定めしたり競り合わせたりしている(笑)。そういう世界です。あそこに奇妙に父親はいない。
三浦 漱石の女性性ってどういこと?
蓮實 まず、漱石には、他者はいるんだけれども、その他者を絶対的真理という家父長的な形で作品に導入してきてない。だからその意味では、明治から大正にかけてイズムと呼ばれうる内村にも福本にも両方にかかってない。漱石のあとに出てくる志賀直哉はもう内村に引っかかっちゃったから、絶対フェミニズムに行けない。
浅田 「孤児」になるしかない。
蓮實 そう。漱石だってフェミニストじゃないけれども、およそ父権的な世界とは遠い領域で男を巧みに操作する女性を描いている。量からしても、あれだけの女のセリフを書いた人はいない。と同時に、あれだけ女性を登場させて見事に振舞わせた作家もいない。それを殺したのが大正文学なんです。そうすると、少なくとも表象化された女性であっても、表象化された女性を殺戮した以後にはじめて小林秀雄が出てくる。小林は漱石はほとんどだめでしょう。
三浦 川端的な女性像というのは、漱石的なものはおよそない。
浅田 だってあれは男性のつくる女性のイマージュだから。極端に言うと口をきいてもらっては困るんです。
三浦 「眠れる美女」になる。
浅田 漱石でも、『こゝろ』はまだかなり男性優位なんじゃないか。少なくとも表層的レベルでは女性は男性間のジラール的モデル/ライヴァル関係のターゲットとしてあるにすぎないわけだから。だけど、そのあとはまた大きくふれてきて、『明暗』はずっと女性優位になっている。だから水村美苗が『続・明暗』を書く必然性があるわけね。
柄谷 『こゝろ』は、男たちが母系の女たちに騙されたという小説だと思う(笑)。実は、二葉亭四迷の『浮雲』もそうなんですよ。
…………
三浦 柄谷さんのお話、説得力あると思うのは、その前の作品群にしても明らかにフェミニンな要素が強いし、登場してくる女性がとにかく勝手に動くでしょう。勝手に動くものとしての女性像だね。それはかなり説得力あるな。
…………
柄谷 たとえば、漱石は、『三四郎』で美彌子について、アンコンシアス・ヒポクリシーということを言っているでしょう。その意味では、『こゝろ』に出てくるお嬢さんとか母親は、まさに無意識のヒポクリットですよ。
三浦 まさに『三四郎』の美彌子の観点で『こゝろ』を読みなさい、と。
柄谷 そうよ(笑)。」
(浅田彰×柄谷行人×野口武彦×蓮實重彦×三浦雅士「「近代日本の批評」再考」)]]>
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2024-03-19T12:45:01+09:00
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http://trounoir.syoyu.net/excerpt/677
( ゚Д゚)<ビッグ・ディファレンス(≒性差)
「浅田 平林初之輔は、マルクス主義陣営では相対的に優秀な人だと思うんです。『第四階級の文学』でも、どの階級にも属さず「人類の文化」を普遍的に代表する知識人なんてものはないと明快に述べている。けれども、だからこそプロレタリア階級と共に歩もうと言ってしまうところで、最後にリプレゼンテーションの図式にとら...
浅田 平林初之輔は、マルクス主義陣営では相対的に優秀な人だと思うんです。『第四階級の文学』でも、どの階級にも属さず「人類の文化」を普遍的に代表する知識人なんてものはないと明快に述べている。けれども、だからこそプロレタリア階級と共に歩もうと言ってしまうところで、最後にリプレゼンテーションの図式にとらわれてしまう。それを全部切っちゃったという意味では、ブルジョワ的であろうが何であろうが、有島がいちばんラディカルだったと言えるでしょう。
そのあとで、おそらくそれを意識して、芥川龍之介が『文芸的な、余りに文芸的な』を書いた時に、もちろんわれわれは階級によって規定されているけれども、そのほか地理的にも遺伝的にもあらゆるレベルで規定されていると言う。しかし、そういうふうに、すべてによって規定されていると言ってしまうと、逆にすべて相対化されて主観化できるようになるわけですよ。有島武郎は、そんなことじゃなくて、ブルジョワジーとプロレタリアート、白人と黒人というようなビッグ・ディファレンスがあって、それは還元できないということを言っている。」
(浅田彰×柄谷行人×野口武彦×蓮實重彦×三浦雅士「大正批評の諸問題 1910-1923」)]]>
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2024-03-19T12:43:36+09:00
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http://trounoir.syoyu.net/excerpt/676
( ゚Д゚)<心理的自己 vs. 主体 2
「浅田 ある種の極左ロマン主義みたいなものが、昭和初年代にマルクス主義に没入した人たちにあるとすれば、その原型みたいなものは、明治二十年前後の透谷とか藤村にもあると思う。だから彼らは信用できないんです。あの当時のキリスト教徒で唯一信用できるのは内村鑑三だけだという気がする。というのは、彼の場合、青年...
浅田 ある種の極左ロマン主義みたいなものが、昭和初年代にマルクス主義に没入した人たちにあるとすれば、その原型みたいなものは、明治二十年前後の透谷とか藤村にもあると思う。だから彼らは信用できないんです。あの当時のキリスト教徒で唯一信用できるのは内村鑑三だけだという気がする。というのは、彼の場合、青年期のロマン的情熱からキリスト教を選んだというよりは、たまたまクラークのいる学校にいたから入信して、しかも入信して不都合しかなかったなんて言っているし、「不敬事件」だって、前々から思いをめぐらして勅語に敬礼しなかったというよりは、パッと前に出た時に、オタオタとしてちょっとおじぎだけして……。
柄谷 慎重に覚悟してではなく、ふっとやってしまったという感じですね。
浅田 そうそう、大したことになるとは思わなかったという、そういうのがおそらく本来的なキリスト者のあり方につながるような気がするんですけど。それ以外の連中のキリスト教は主観的なロマン主義でしょう。
…………
もし当時のキリスト教が昭和初期のマルクス主義みたいな位置を担ったとすれば、透谷の自殺は小林多喜二の死のような効果をもったかもしれない。その点、内村鑑三は福本和夫のようなところもあるし、中野重治のようなところもある。なんでキリスト教なりマルクス主義なりを選ぶのかわからないんだけれども、その偶然性は、事後的に絶対的な必然性へと転化する。
三浦 まるでキルケゴールのことを言っているような感じがするね。
浅田 それはキリスト者として本物という感じがする。透谷や藤村の内面のドラマというのは……。
三浦 それはロマン主義ですよ。」
(浅田彰×柄谷行人×野口武彦×蓮實重彦×三浦雅士「明治批評の諸問題 1868-1910」)]]>
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2024-03-19T12:42:34+09:00
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http://trounoir.syoyu.net/excerpt/675
( ゚Д゚)<心理的自己 vs. 主体
「柄谷 ……
主体というのは、心理的自己とは違って、他者と関わるダイアレクティックのなかで出現する。たとえば、内村〔鑑三〕においては、主体 subject は、“I am subject to God”としてのみ可能なのです。彼は没落した武士階級...
柄谷 ……
主体というのは、心理的自己とは違って、他者と関わるダイアレクティックのなかで出現する。たとえば、内村〔鑑三〕においては、主体 subject は、“I am subject to God”としてのみ可能なのです。彼は没落した武士階級出身ですから、主君に対する忠誠を唯一神に対するそれに置き換えたわけです。しかし、この転倒を簡単に批判できない。なぜなら、どのみち、主体はそのような転倒によって生まれるのだから。そして、内村の場合、この主体は、神に従属するということによる主体ですから、他のいかなるものに対しても独立的である。教会にも国家にも従属しない。だから内村が孤立するのはきまっている。
他のキリスト教徒も概して旧幕府系の没落した武士階級出身者が多い。しかし、内村のような過激な例は他にない。一般的には、明治のキリスト教というのは、こういう劇的なドラマを経たわけではなくて、漠然として近代的なものだったのですね。だから、まもなくキリスト教なんか要らなくなる。神などなくても、主体でありうるということになる。そこで起こるのが、キリスト教のヒューマニズム化、あるいは社会主義化ですね。大正ぐらいのころはみんなそうだった。内村は、こういう近代的主体に反対だった。社会主義的解決にも反対だった。彼は大正に入ると、再臨信仰などになって、ますます孤立していった。
内村の批判者が、ヒューマニスティックな、あるいは社会主義的な立場になったのは、簡単に理解できることです。しかし、そのなかに一人ヘンなやつがいた。おそらく、キリスト教がなんたるかをほとんど理解していなかったけれども、それが人を病気にするものだということだけを直観していた男がいた。それが志賀直哉だと思うんです。たとえば、志賀のテクストにおいては、「気」が主語なんです。気分が主体である。私はこう「思う」と書いてあっても、英語でいえば、“I think”ではなく“I feel”なんです。というよりも、もっと正確にいえば、“It thinks in me”“It feels in me”とでもいうべきものです。この非人称主体 it とは、ドイツ語でいえば、エスです。フロイトが無意識と呼んだし、ハイデッガーが存在者の「存在」と呼んだ、あのエスです。
この場合、志賀を内村との対立と関係づけてみると、彼の転倒がよくわかるはずです。つまり、志賀は、主体性を、“I am subject to It”としてつかんだと言えるのです。志賀においては、そういう意味でのみ、主体がある。普通の意味では主体はないに等しいわけです。「不愉快だからこうだ」とか「こういう気がするからこうする」というのは、ふつうの人にとっては、気まぐれで恣意的な判断に見えるけれども、彼にとっては絶対的なのです。何しろ、“It”に従属することによってのみ主体なんだから。
こうして見ると、内村と対極的な形で「私」が出てきている。これに対しては、芥川龍之介も小林秀雄もかなわない。その意味で、志賀が代表するかぎりにおいては、私小説は、内村的なものとの対決と、その裏返しという形で出てきた。……
しかし、一般的には私小説はそういうものではない。最初に言ったように、内村も志賀も武士的なんですね。それは、ほかの圧倒的に多数の階級とは違う。むしろ、一般的には、こういう従属-主体の構造が乏しい。そして、近代日本の「主体」は、こういうエディプス的なものではなく、はっきりしない主体の方が支配的になったのではないか。……
…………
蓮實さんが昔論じていたけど、志賀直哉は戦後になって、日本人は日本語をやめてフランス語でやれとか言っているでしょう。これはふつうの作家が言えることではないね。エスが言わせているんだろう(笑)。
…………
浅田 父権的なものではないけれど、母性的なものでもない。川端康成を「孤児」というのとは全然違った意味での「孤児」ですよ。「孤児」だから「父」にはなれないけれども、しかし母性的な構造には回収し得ない過剰なものを持っている。まあ、半分はたんにわがままだというだけですけどね(笑)。
蓮實 わがままなんだけど、趣味のわがままじゃないんですね。大正は趣味のわがままでしょう、「個人」といったって皆。だから趣味を超えたわがままというのは、ちょっとすごいね。」
(浅田彰×柄谷行人×野口武彦×蓮實重彦×三浦雅士「「近代日本の批評」再考」)]]>
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2024-03-19T12:41:35+09:00
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