「たとえば、文学者がおこなったアピールの中でも世間の耳目をあつめた、一九九一年三月十八日付『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された「憂える日本市民からの反戦の訴え」という意見広告では、三十年前とみまごう「反戦」メッセージが何の疑問もなく語られている。……
……「外交」的な視点以前に、この意見広告には多くの問題点が存在している。
まず広告の中央の写真が、なぜアメリカ大使館の前で「今すぐ戦争をやめろ!」とかいた横断幕をもった女性たちなのかが、わからない。
「国際紛争は、武力では解決しえない」と、アメリカ人にたいして本気で主張し、説得するならば、もっと効果的な画像はいくらでもあるのではないだろうか。
「外交」的には好ましくないからもしれないが、爆撃されたバグダッドの光景や、焼けだされた市民といった、相手に関心をもたせ、こちらの意図を伝えられるような写真の選択があったはずである。
どこかのおばさんたちが、よくわからない言語でかいた布切れをかかえている写真に、何の意味があるのだろうか。
この広告には、停戦直後の、圧倒的多数の米市民がアメリカ政府の軍事行動を支持していた時点で、相手の「感情を逆なで」するような意見をのべるという緊張感が欠けている。まったく自分たちと違う意見をもっている他人に話しかけるのならば、相応のやり方というものがあるはずだ。
対話の基本的な心がまえの欠如は、本文にも随所にみいだすことができるが、とくに「日本憲法の精神」と題する段ははなはだしい。
アメリカ人に戦争反対を訴える広告で、自国の憲法を論拠にして軍事行動への批判を展開するというのは、かなり常識を欠いた発想である。アメリカに日本の「貢献不足」を弁解し、寛容な理解を乞うといったたぐいの文章ならば、憲法を国際社会での行動のアリバイにするという論理はありうるかもしれない。
しかし、その国では国法上ゆるされている戦争行動を、自国の憲法によって批判し、「この憲法のおかげで、日本の軍隊は四十五年にわたって人命を奪っていない」などと自慢して、「あらゆる国において、日本憲法の精神が、真剣に検討され、うけいれられるべきだ」と強調するのは、相手を説得するという視点からみても、何の意味もないのではないだろうか。自国の法律の精神や価値観により、他国の行動を非難するのは、無意味をとおりこして、一種の傲慢さを感じさせるだけだろう。実際、写真の選択から「平和憲法」論にいたるまで、この広告は不思議なナルシシズムを発散している。
すくなくとも、アメリカ市民との対話を希望するならば、日本にもアメリカにも固有でない、両者共通の立場、あるいは「普遍的」と思われる立場にたって議論するべきではないか。
こう指摘すると「憂える日本市民」たちは、いや「憲法九条」は普遍的な原理なのだ、だからアメリカ人にもすすめるのだ、と言うにちがいない。
しかし、その「普遍性」も憲法を戴く日本がそう主張しているだけで、アメリカや他の国の憲法にもそれなりに「普遍」的で素晴らしいことがかいてある。それでも自分の国が一番だ、と主張するならば、礼儀をわきまえないと言われても仕方がない。
すくなくとも言葉をあつかう仕事に携わるものが、わざわざ広告掲載料を払ってまで他人に話しかけるならば、写真にしても、論説にしても、相手の立場や意識を考えて理解しやすくする配慮をすべきではないか。このことは、別にアメリカの神経を「逆なでするな」ということではない。「逆なで」するならば、きちんと相手にもそれとわかるように「逆なで」してほしい、と言っているのである。」
(福田和也「「反戦」声明の虚しさ」)