「日本人の国連コンプレックスが戦争に由来しているとすれば、その核心は敗戦国としての地位だけではなく、より深く平和という観念から発する。
国連は、平和の保持を目的とすることが、国連憲章第一章第一条【目的】にうたわれている。「国際連合の目的は、次のとおりである。1、国際の平和及び安全を維持すること……」
現在私たちの平和にたいする姿勢は、かなり独特である。たとえば広島原爆慰霊碑にしるされた「二度とあやまちをくりかえしません」といういいまわしや、アジア諸国にたいする過去への反省や贖罪という表現から、日本人は戦争という行為が、誤りであり罪であると考えていることがわかる。
もちろん、ある意味で戦争が罪であるという認識は万国共通のものである。だが日本が独特なのは、戦争の本質をこの罪悪という性格にのみ還元して、ひたすら悪いこと、あってはならないこととみなし、その外の意味を排除してしまう点にある。このような排除は日本人に、戦争を完全に現実的かつ歴史的な文脈から遊離して、観念的な倫理によってのみ考察し、解釈することを許した。
戦争が悪であるならば、罪悪をおかさなければ戦争からのがれることができる。つまり日本人は、悪いことをしなければ、戦争にまきこまれないという信仰をいだいているのだ。「二度とあやまちをくりかえしません」という文言は、「あやまち」さえおかさなければ戦争がおこらないという意味なのである。このような論理によって日本人は、善意をもって、軍縮や中立といった理想を実現すれば、戦争はおきないと信じてきた。
国際社会における平和の維持を第一の目的とする国連は、まさしくその目的によって、至上の善と理想のやどる場所とみなされる。平和が善ならば、平和を作り出す国連は、善の塊にほかならない。湾岸戦争で国民の大部分が国連に違和感をいだいたのは、正義の府である国連が、武力行使という「悪」を決議したからである。日本人にとって、あくまで平和は善であり、善によってしか平和は達成されない。
いわば日本人にとって国際連合への信仰は、二重の現実逃避なのである。一方において、日本の敗戦国としての地位と現在までの歴史的前提をうみだした第二次世界大戦という特定の戦争からの逃避があり、それをさらに戦争をめぐる政治、経済の現実全般からの逃避である「ダチョウの平和」への信仰が包含している。」
(福田和也「国連外交の甘い罠」)