「だが、改めて事柄を井土紀州の姿勢に戻そう。たとえば、井土は映画の冒頭で、スターリンが歴史を改竄すべくトロツキーの存在を抹消した写真をひきながら、「ここには映像で歴史を語ることのあやうさと魅力が存在している」と断定している。これは強い覚悟だ。井上はおそらく、自分も歴史の偽造に加担するかもしれないが、だからといってそれを決して処女的に恐れることはしない。むしろ、つねにすでに進行しつつある従来の歴史の偽装を異化しうるのは、自分がこれからあえて生産する新たな偽造以外にありえない。そうした決心を披瀝しているはずなのだ。
だが私はこう思う。確かに、何かを提示するとはいかなる場合も別の何かを否応なく排除することであり、故意か過失かはともかく、我々はつねに排除の暴力に加担している。スターリンの悲劇に限らない。正義の味方気取りで自分はスターリンではない、と思っている連中が無意識に歴史を偽造する不快な喜劇、それからも何度繰り返されたかわからない。だが、映像の暴力についての成熟した認識が生きるのは、我々が本当の意味でその暴力との対決を目指す時にだけである。我々が排除の暴力に加担してしまい、その不可避性を痛切に承認する時にこそ、この暴力を絶えず最小化することが根底的に議題になるのである。暴力批判は暴力批判であり、決して暴力の不可避性への居直りではない。排除の不可避性を承認することと、そこから「何でもあり」というシニカルな当為に跳躍することとは別のことだ。ある現在の提示が別個の「現在」を隠蔽せざるをえない事実を公開的に承認し、不断の反証可能性に自分をさしだしてゆく映像と、捨象や隠蔽の事実さえ隠蔽して見る側に何も考えなくさせる映像とはやはり決定的に違うのだ。井土の映像が持つ、(自分自身もスターリンと同じことをしているかもしれない)という自覚は、前者に向っていると言えるのか。」
(鎌田哲哉「途中退場者の感想」)