「一九三六年七月十七日に、スペイン人民戦線政府によって参謀総長を罷免されてカナリア諸島の駐屯軍の司令官として左遷されていたフランコ将軍が、スペイン領モロッコを襲撃して反乱の火の手をあげたとき、ブラジヤックはスペイン国境に隣接する母の故郷ペルピニャンで夏のヴァカンスの過ごしているところだった。人民戦線政府を打倒しスペイン全土を支配下におさめるべくフランコに呼応して決起した軍部に対して、人民戦線政府を支持する市民たちはありあわせの武器を手にして立ち向かい、当初の予想をくつがえして粘りづよい抵抗を全土で展開した。特に首都マドリードやバルセロナでは、人民戦線側の民兵が短時間のうちにフランコ軍を打ち破り制圧し、全国的な極めて根づよい反ファシズムの感情、右翼に対する人民戦線側の結束の強さと戦いへの意志を示したのと同時に、人民戦線の陣営のなかでそれまで主導権を握っていた穏健共和派や急進党から、実際に市民兵を掌握しているアナキストや共産党、反共産党的社会主義者へと権力が移動したのである。特にアナキストが権力を握ったバスク地方では、反宗教を旗印にかかげるアナキストたちが、これまでの教会による圧制への復讐としてかたはしから教会を焼き討ちにし、ときには聖職者を皆殺しにした。ブラジヤックが休暇中ペルピニャンで出会ったのは、圧制の歴史に対する復讐のために教会や修道院を追われて、命からがらフランスに逃げこんだ神父や尼僧の群れだったのである。
もちろんこのような第一印象がスペイン戦争に対する態度を決定するにあたってブラジヤックに影響を及ぼさないではなかったが、しかしブラジヤックのこの戦争に対する規定は、人民戦線派の教会に対する暴虐に抗議してフランコに支持を与えたモーリヤックやベルナノス、そしてフランスにおけるフランコ支持の保守的世論一般が示した「キリスト教対共産主義」、「カトリシズム対ボルシェヴィズム」といった解釈とは異なっていた。のちにバスク地方を制圧したフランコ軍が、人民戦線を支持した僧侶を無裁判で処刑し大量の粛清をおこなうのをまのあたりにして、モーリヤックやベルナノスがフランコ支持を撤回し抗議・弾劾の声をあげたような動揺もブラジヤックには存在しなかった。またブラジヤックにとってスペイン戦争はマルローが『希望』において描いたように、「共産主義対ファシズム」の戦いでもなかったのである。マルローは……パノラマ的手法を用いて、絶望的な戦いのなかから人間の「希望」が、人間の尊厳をかけて戦う民衆の熱狂=アポカリプスを組織し規律を与えうるコミュニズムにゆだねられていることを示そうとしたが、それに対するブラジヤックの批評はまことに手厳しいものだった。
…………
ブラジヤックは同時代の作家のなかでも、マルローに対してひときわ強い敵意をもち、何度となく書評記事や「ジュ・スイ・パルトゥ」の論説で非難を浴びせたが、その原因が知識人としての共産党への加担と、フランス人民戦線政府のスペイン人民戦線政府への支援にあたってマルローが果たした役割の大きさによるものであるのは間違いないだろう。ブラジヤックにとってスペイン戦争はどちらにしても大義のある戦いではなかった。マルローにおけるコミンテルンの大義への過信を批判したのと同様、かれはファシズムもフランコも、教会も信じてはいなかった。ベルナノスが『月下の大墓地』で書いたような蛮行、大量虐殺をフランコ軍がおこなっているのも知っていたし、ナチス=ドイツのコンドル部隊によるゲルニカの爆撃も知っていたのである。しかしまた人民戦線の側にも大義があるようには思われなかった。人民戦線の側で戦ったシモーヌ・ヴェイユが証言しているように、スペイン戦争は「捕虜のない戦争」であり、アナキストたちは投降したフランコ軍兵士をかたはしから処刑していたし、僧侶と教会にはいっさいの留保なく攻撃が加えられ、あまり教会を焼き討ちにしすぎて軍用車を動かすガソリンが不足するほどだった。共産党にいたってはフランコ軍だけではなく、人民戦線内部での主導権争いのために社会主義者やアナキストにまで粛清を加えていた。そこには、酷薄さにおける程度や性質の差はあっても、絶対的違いは存在しなかった。そのためにブラジヤックは、みずからが関わった血まみれの惨劇をコミュニズムの大義において正当化するマルローが許せなかったのである。
どちらにしろこの戦争は殺し合いの地獄であり、どの陣営にも「大義」などありはしなかった。ブラジヤックによるならば、この戦いに「希望」があるとすれば、それはいかなる党派の大義やイデオロギーでもなく、この「地獄」そのもの、血まみれの殺し合い、それ自体にほかならなかった。ブラジヤックはもちろん、流血を望んだわけではないが、しかし古い価値が没落しつつあるヨーロッパにおいて戦いは避けられないものであり、そしてその戦いからしか未来は生まれえないと無理にでも考えたのである。そしてブラジヤックはすすんでみずからが生きる破壊と殺戮の時代を受け入れ、否定するのでも、逃亡するのでもなくこの「地獄」を受け入れ、そこからうまれくる価値をみつけようとした。そしてファシズムとは、政治によって戦いの無残さを正当化し、政治的目的のためにすべてを犠牲にする左翼的政治第一主義とは異なって、個人の意志でその悲惨を受けとめて戦いそのものに価値を見出す思想、目的のために行動の本質を従属させることをしない、衝動と享受の、ブラジヤック的な言葉をつかえば「青春」の思想だったのである。」
(福田和也「ロベール・ブラジヤック」)