「虚構の物語の言説は、それがエクリチュールであるが故に、とりわけて先に触れた解釈の問題を引き起こす。受信者が発話者と共有する状況の抽象度が高いため、解釈の自由度が高くなるのである。ここで受信者、読者は不在の発信者、作者と「虚構の存在者」について自ら想像を巡らして解釈せねばならない。だがこの解釈の問題は先述のとおり、エクリチュールには多かれ少なかれ常につきまという。そもそも原理的には、あるエクリチュールの受け手は、その作者が誰なのか、を、またその指示対象が何を意味するのか、その指示対象が果たしていつかどこかで本当に存在したことのあるものなのかどうか(つまりそのエクリチュールの内容が真実なのか虚構なのか)、を確証する方法を持ち合わせてはいないのである。我々になし得るのは推測することだけであるし、それで十分だ、と言うしかない。
すでにみてきたように、エクリチュールに担われた発話は、時空内に分散した不特定多数の誰かに向けて語りかけることができる。ここでいう不特定多数とは厳密に言えば、その発話者の所属するコミュニケーション・ネットワークに関わっている、その受け手となり得て、そして他の発話の主体となり得るものすべて、であって、完全に不特定というわけではない。しかし、この「その受け手となり得て、そして他の発話の主体となり得るもの」の具体的内容は発話の遂行、この場合には作者にとってどこの誰ともしれない読者にそれが届くまでは、誰が、あるいは何がその中に数えいれられるのか、を前もって特定することは不可能である(だからこそやはり「不特定」なのだ)。エクリチュールはこのようにして、その担う発話が未完了なままに漂っていることができる。
結論は明らかであろう。このようなエクリチュールの浮遊性が、それをして「虚構の存在者」を指示することを可能ならしめる。そして「虚構の存在者」が本当に虚構の(非)存在者であるのかどうか、は読み手にとってはしばしば確証できない。「これは虚構だ」という、我々が物語を読むときに持つ信念もたかだか規約でしかない。
そして、これが規約であればこそ、我々が物語を読むときの「これは虚構だ」という留保付けは、一見したところと異なってきわめてシリアスなものなのである。浮遊するエクリチュールは、一見逆説的にもそれが浮遊しているからこそ、強固な客観性と公共性をコミュニケーション・ネットワークに与える。しかし、その文脈から自由な客観性、つまり公共性は、通常の発話の場面におけるコミュニケーションの文脈的な客観性、つまり状況性に比したとき、主体に対して大きな試練を与える。発話の主体、書き手は不特定の受け手、読み手に対して通常以上に自らの意図を正しく伝える努力を払ったうえで、なお必然的に生じる誤解、解釈の多義性に耐えねばならず、逆に受け手、読み手の側は不透明なエクリチュールの向こう側にある書き手の意図やそこに描かれた内容について想像を巡らして正しい解釈へと努力を積まねばならない。そして、こうしたエクリチュールの試練は、虚構の物語の経験において最もきびしいものとなり得るのだ。虚構とは、解釈の多義性の極点に位置する現象である。それ故に虚構は逆に「虚構の(非)存在者」をも指示してしまうことができるエクリチュールの客観性、コミュニケーションの事実性をはっきりと照射し、コミュニケーションが人々の共同によって成り立っていることを否応もなく我々に思い知らせる。しかし、それだけではない。
我々が虚構、端的に現実ではないもの、不在のものについてかくのごとく語り得るということ、それどころか呼びかける(振りをする)ことさえできるということは、我々のエクリチュールが穴だらけであること、忘れ去られた書き手や未だ来たらぬ読み手、現実に存在しているとも存在していないともつかぬ指示対象のための席がそこには無数に空いていて、それでもエクリチュールの連鎖、コミュニケーション・ネットワークは破れることなく続いていく、ということをも意味する。
このように考えるならば、我々がナンセンスな発話を行なうことができ、虚構の物語を紡ぐことができるということさえも、我々が未だ出会ってはいないが、しかし客観的に宇宙のどこかで生起している事実に出会うための準備としてあるのだ、とさえ言い得る。」
(稲葉振一郎『ナウシカ読解(旧版)』)