「身振りとは、ある手段性をさらしだすということであり、手段として手段を目に見えるものにするということである。身振りは、人間の、〈間にあること〉をあらわにし、人間に倫理的次元を開く。……マイムにおいては、日常的きわまる目標に従属した身振りがその身振りとしてさらしだされ、そのことで、「欲望と遂行の間、犯行とその追想の間」に、マラルメが「純粋な間」と呼ぶものの内に宙吊りになる。このように、身振りにおいても、人間たちに交流するのは、それ自体が目的である目的の圏域ではなく、目的を欠いた、純粋な手段性の圏域なのである。
「目的のない目的性」というカントの不明瞭な表現は、こうしてはじめて具体的な意味を獲得する。目的のない目的性とは、手段において、身振りを、〈手段であること〉そのもののうちで破断する身振りの潜勢力のことであり、この目的のない目的性は、このようにしてはじめて、手段をさらしだし、もの res を、すなわち genere[負担する、引き受ける]されるもの、res gesta[これこれのものを遂行する、自分の身に負う、その責任を全面的に引き受ける]にすることができる。同様に、もし人が言葉を交流の手段と見なすのなら、これこれの言葉を示すということは、この言葉を交流の対象とする、より高度な平面(第一の水準の内部ではそれ自体交流不可能なメタ言語活動)を用いるということではなく、それはつまるところその言葉を、いかなる超越性もないままに、その言葉固有の手段性の内に、その言葉に固有の〈手段であること〉の内にさらしだすことである。この意味で身振りは、交流可能性の交流である。より正確に言えば、身振りは言うべきことなど何もないのだ。というのも、身振りが示すのは、純粋な手段性としての、人間の〈言語活動の内にあること〉だからである。しかし、〈言語活動の内にあること〉は命題として言われうるようなものではないので、身振りは、その本質において、常に、言語活動の内では把握されない、という身振りなのである。身振りは常に、語の本来の意味でのギャグ gag である。この語はもともと、言葉を妨げるために口をふさぐものを、また、記憶に穴が開いてしまったり話せなくなったりした時に、俳優が場を繕うために即興でやることを意味する。というわけで、身振りと哲学だけでなく、哲学と映画が近さをもってくる。映画の本質的な「無声性」(これは、サウンド・トラックのあるなしには関係がない)は、哲学の無声性同様、人間の〈言語活動の内にあること〉をさらしだすことである。つまりそれは、純粋な身振り性である。言うことのできないことを示すこと、というヴィトゲンシュタインによる神秘的なものの定義は、文字どおりギャグの定義である。そして、すべての偉大な哲学のテクストは、言語活動そのものをさらしだすギャグであり、巨大な記憶の穴のような、言葉の癒しがたい欠陥のような、〈言語活動の内にあること〉そのものである。」
(ジョルジュ・アガンベン『人権の彼方に 政治哲学ノート』)