汝自己のために何の偶像をも彫むべからず
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(女は)只口だけは巧者である。女は只一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは必ず女である。男は必ず負ける。具象の籠の中に飼われて、個体の栗を啄んでは嬉しげに羽搏きするものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音を競うものは必ず斃れる。右の文章にあるように男と女が鼻をつきあわせるせまい世界は戦いの世界である。そして「具象の籠の中」で「個体の栗を啄」むその世界は、卑近な日常生活に住む個人としての男女の葛藤を描く、「近代文学」の世界でもある。そこに住む女は、寵姫、愛妾、女王、お姫様、おいらん、女郎、芸者などではなく、結婚してようがしてまいが、藤尾のようなふつうの女なのである。
「このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。/たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。/こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。/彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。/しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。/経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。/そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。/それが「本態的に弱い」ということである。/村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。」まったく同意できない。
内田樹の研究室 「壁と卵」http://blog.tatsuru.com/2009/02/18_1832.php
「「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。」(四国新聞掲載の訳より)何が「正しい」か「正しくないか」は、おのれの行為(彼の場合は小説を書くこと)の基準たりえないということだ。それは自分の見えること、できることの外部にあり、「他の誰かが」「おそらく時や歴史というもの」が決めるだろうと言っているのだ。その「他の誰か」が決める「正しさ」は結局は相対的なものでしかないだろうということも、この言から伝わってくる。分離「壁」の思想的祖であるジャボディンスキーが「正義」という言葉を使っていたことを思い出そう。では何が「正しく」何が「正しくない」かがおのれで判断できないとすれば、どうするか。どのように小説を書くか。その答えが「常に卵側に立つ」ということなのだ。」
(前略)かれらは、最初、どこかに正統派のマルクス主義というようなものが存在していて、そいつが公式的なものの見方のために手も足もでない状態におちいっていると考え、せいぜい、異端者らしくふるまうことによって、正統派に活をいれてやろうとおもったのかもしれない。そこには多少の善意がみとめられないことはない。しかし、なんというつまらない善意だろう。公式的なものの見方のためにがんじがらめになっている連中こそ異端者で、そいつを解放しようとするものこそ正統派だろうじゃないか。花田がこの論理を保守派カトリックの作家・批評家であるチェスタトンの『異端者たち』(邦訳『異端者の群れ』)を援用しながら主張していることからも知られるように、花田にとっての正統派マルクス主義の「党」は、普遍的な「教会」とアナロジー可能なものとして考えられている。……党は決して硬直した教義によって凝固しているわけではなく、「対立物を対立のまま統一」しているがゆえに「正統」なのだ。それゆえ、時には誤った方針を出すこともある。しかし、それが誤っているという理由で「正統」に対立しようとする異端は、カトリックの外部にある異教・邪説がそうであるように、むしろファンタジー(あるいは、初期花田の言葉を用いれば「錯乱の論理」)に過ぎないのである。……