「渡部 ……それは順序が逆なんじゃないか。ブツから見いだされたものを、起源にしてしまうわけだから。
福田 それが「批評」ってことになるんじゃないの。
渡部 それは、ぼくにいわせると批評ではなくて「呪文」なんだけどね。小林秀雄だって、呪文的でしょ。多数の読者を獲得する批評の枠組みは、どこかに呪文を含まなければいけないだろう。しかしその呪文は、退廃とまではいわないにせよ、目に見えているブツを読み消さなければ出てこないものじゃないのか。
福田 「呪文」には効き目がある(笑)。テクスト論的な読みかたに対するぼくの反発と重なってるのかもしれないけれど、「読む」ということ自体に、テキストを運動させて可能性を汲み尽くすようなスタイルがあり、そこにはどうしようもない耽溺性があると思う。渡部さんのように上手な人は、「耽溺のスタイル」が決まってくるわけでしょう。もちろん、そうしないと読み得るものにならないから。でも、それは完全な運動ではなくて、運動のみぶりであったり、スタイル、文体といったものが出てくるためのものでしかないんじゃないですか。
渡部 でも、運動以前にさかのぼるわけではない。
福田 ぼくのやりかたは、ブツから運動のところを取っ払ってしまうんですよね。運動してるんですけど、それは見せないわけ。
渡部 だから、書かれたテクストと絵画とが並列的に論じられるのでしょうね。ぼくは、昔から一貫してそれを拒絶している。『リアリズムの構造』に収めた子規論を読んでくださればありがたいのだけれど、たとえば正岡子規を論じるのであれば、俳句分類から始めるわけです。子規は、自分が俳句の「趣味」に目覚めたのは俳句分類をやったからだ、と書いているんだけれど、桶谷秀昭さんはそのことが理解できないと書いていた(『正岡子規』)。でも、ぼくにはよくわかる。だって、過去の数千という俳句を目の雨のブツとしてまず並べて、比較して、添削という置き換えをやってみるわけでしょう。そのとき初めて「写生」という概念が成立する。だからぼくにとって、子規はあなたのいう「目の人」じゃなくて「手の人」なんですよ。福田さんの『日本人の目玉』を読んだときも、桶谷さんの子規論と同様に、そう思った。
福田 なるほどね。そこで相容れないのかもしれない。ぼくは、基本的にはディレッタントなんですよ。たとえばプルースト学者にいちばん反感を感じるのは、夜遊びしたことのないようなやつがなんでプルーストを読んでるんだ、ってことなんです。そりゃあ、くだらないですよ、ノルマンディのホテルの食事がどうこうとか。でも、やっぱり『スワンの恋』に出てくるフランクの演奏にぼくは興味がある。書かれたものだけで読む、というのもひとつの姿勢だと思うけれど、やっぱりスワンが恋を諦める場面でのフランクの曲を実際に聴いたり、どういうふうに演奏されたか、文脈を考えることなしにはよめないんですよ。それが間違っているというのであれば、もう謝るしかない。でも、ぼくにとっての文芸っていうのは、絵や音楽やなにかをぜんぶ含めたなかに自分がどういるかということなんです。それは、近代ってどういうものか、ということでもある。『日本の家郷』第二部で書いたのは、これはテクスト、これは絵、という分離がなされていない時代があったということです。そんなに昔のことじゃなくて、馬琴なんかが書いていたときには、絵とテクストが分離できないところで闘ってたわけですよ。彼は絵が描けないから、挿し絵画家にこう描いてよって苦労して伝えて、それでも京伝みたいに描けるやつに負けている。当時、そこは切れない世界だったんです。それを天心が切ったのか、誰が切ったのかは別として、ぼくにはやっぱり見逃せないところなんですよ。
渡部 ぼくの関心は、たんに書かれたものだけで読むというのではなくて、書かれたもののなかで動くものを捉えることです。ドゥルーズ的ないいかたをすれば、音がことばと別にあるんじゃなくて、〈ことば-音〉というものがあるわけです。たとえばあなたがプルーストを読んで、実際にピアノを聴きたくなるというのは、そうした言語の効果なわけでしょう。あなたの話を聴いていると、その結びつきを切ってしまって、「趣向」としての世界といったものをじかに措定してしまうような気がする。でも、言語そのものと音とがわかちがたく結びついて、それを読んだ人間がコンサートに行きたくなるというのは、文学の力であり言語の力でしょう。そういった言語的なブツの平面を、あまり簡単に捨象してしまうのはもったいないんじゃないか。
福田 簡単に捨象しているように見えるとすれば、ぼくの文章がそこまで及んでないからです。でも、ぼくがやりたかったのは、文学をもっと広い場所とのかかわりに戻すことだったんですよね。文化にしても、政治にしてもね。小林秀雄の「モォツァルト」なんて、いまの学理的な水準でいえばしょうもないものですよ。でも、それは文章として、海老沢敏が書くよりもはるかにすばらしい。そこで享受されている、批評の持つ「文化体験」とでもいうのか、本を読んだり音楽を聴いたり、その背後でつまんないやつとつき合ったり、酒飲んで喧嘩したり、それらぜんぶを含めたところに、どんなふうに自分が書いた文字がかかわっていけるか。それらをぜんぶ包含していくような力が、「批評」だと思っているんです。」
(福田和也×渡部直己「セメント・マッチ──「呪文」の効用」)