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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<労働価値説=文学的自意識

「歴史的に言っても、最初に労働過程に積極的に投入されたのは、女と子供であった。エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』やマルクスの『資本論』の有名な「労働日」の章からうかがえるように、そして今日の歴史学がそのことをより精緻に追認しちえるように、十九世紀の初期産業資本主義において商品化されるべきなのは、まず女の──そして同時に子供の──労働力である必要があったのである。「たいていの生産過程では児童や少年や婦人の協力が不可欠だったので〔労働日の短縮・制限の〕実践は成人男子工場労働者の労働日をも同じ制限に従わせたということだった」(『資本論』)というように、初期産業資本主義が包摂しようとした絶対的過剰人口としての労働力は、まず女と子供にほかならず、成人男性の労働力がそこに導入されるのは、論理的かつ相対的に、後のことなのである。成人男性は封建的家父長(をモデル)として存在しているがゆえに、相対的に安価な労働力たる女・子供の後に生産過程に入っていく。これはマルクスやエンゲルスの考察の対象となったイギリスのみならず、明治期の日本においても変わらない。……
 ……ここからも明らかなように、資本制における男性労働は、女性労働と較べてみれば、歴史的に言って、あらわに奴的な段階を経ていないがゆえに、その労働の奴的契機を捨象することが観念的に可能なのである。
 先に触れたように(第一章「市民社会のオデュッセウス」)、吉本隆明や江藤淳においては、文学=表現が端的に労働という隠喩によって論じられていながら、彼ら自身がそのことを無理に否定しようとする現象が見られたのは、彼らが、ごく素朴に、労働の主体的(=僕的)力能のみを掬い上げようとして、そのことと表裏一体であり、労働の奴的契機と相即する、労働による商品生産とその売買の側面を捨象しようとしたからだとも言える。労働=表現によって文学作品は生産された。しかしそれは、買われなければ何の価値もないのだが、買われるという保証はどこにもない。なるほど、文学作品もまた、資本制社会においては稀少品という規定を受けてはいる。それを作るには、アウラとも呼ばれる稀少な才能が必要だと考えられているからだ。しかし、文学生産者は、社会学的事実としては、資本制のなかの最も弱い「売る立場」たる、小商品所有者にすぎないのである。ここで、文学作品という小商品の生産者=所有者は、「命がけの飛躍」(マルクス)を強いられるが、売ることに失敗した場合を想定すると、主体的(=僕的)契機は破棄されて、奴的契機が顕在化するほかはない。文学を表現=労働であると暗に認めながら、それが商品であることを否定するという矛盾は、奴の心理学によって容易に解明されるだろう。奴は、その労働の生産物が売れなくとも、そこに価値が内在していると見做したいのだ。ここで反復されているのは、「生死を賭する戦い」に勝利しえない存在という、奴の回避しえない宿命なのである。この意味で、文学の生産・流通の場は、資本制社会において、ヘーゲル的「自己意識」が最も露呈しやすい環境にあると言えるだろう。
 労働によって生産された商品の価値が実現されなければ、その商品の稀少性は社会的に否定されたことになる。文学作品の価値が否定されるのだ。この時、文学はもはや資本制社会にふさわしくない、時代遅れのものと見做されることになろう。これもまた、われわれが現在しばしば目にする社会学的事実である。しかしそれは単に、文学作品を「売る立場」の者が、資本制においてはたちまち時代遅れの存在となる小商品所有者として立ちあらわれざるをえないところから来る幻想に過ぎない。資本制社会の小商品所有者は没落しやすいが、その理由は、多くの場合に、小商品所有者が稀少品を生産することは困難だというところにしかないのである。
 だが資本制社会のコミュニケーション・モデルは、対等な小商品所有者相互の等価交換という前提にしか存在しない。言うまでもなく、それが人間の平等というたてまえの基礎である。いかなる大資本家も、彼が雇う労働力に対しては、対等な小商品所有者として、労働の対価を支払うに過ぎない。だとすれば、文学が稀少品の生産と見做されている限り、それが往々にして時代遅れのものとされることはあるにしても、必ず資本制にふさわしく身を立て直しうるのである。」
(スガ秀実『小説的強度』)
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