「……ル・モンド紙では、日本館〔一九九六年ヴェネチア建築ビエンナーレの日本館、阪神淡路大震災の瓦礫の展示『亀裂』〕について「日本館には建築家がいない、建築もない、にもかかわらず、これだ!」という言い方をしていましたね。建築を模型と図面と写真で見せるのが建築の展覧会だという固定観念があるし、建築は壊れて消えるものじゃなくて、つくるものだという考え方もある。そういう通念は確固としてあるから、それを崩そうとしたという部分は実際、あったと思います。
僕は、おそらく四つぐらいの問題に対する批評として、この日本館が存在したらいいと考えたんです。
まず一つは、〈地震計としての建築家〉というテーマに対する批評。建築家はそれぞれ未来を感知している、という主題は僕にしてみれば、それもいいけれど地震というのはそんなにヤワなもんじゃない、と思うのです。神戸で被災地の真ん中にあった地震計はすべて壊れちゃったわけですから。つまり、地震計が感知するという程度のものではなくて、それ自身も壊れてしまうような大きな変動が常にわれわれには起こるんだということ、そこを本当は知らないといけないんじゃないか。その意味で建築展の主題に対する批評が必要ではないかと考えました。
二つ目は、震災の直後から言ってきたことですが、震災の光景を見て、ハッと思ったのが、「デコンの終わり」です。現実的に他の各国館もメインの展覧会も六割はデコン、あるいはデコン風でしたね。それが今回の平均値となっていた。ところが、日本は一年半前に、それはもう終わったという光景を見ちゃったんです。建築家がいくら複雑な操作をして形をつくっても、地震は、一遍でそれを上回る状況を出現させた。この期に及んで壊れたがごとくにつくるのは、大して魅力を持たないのではないかとわれわれは感じ始めていたときに、世界はそうは言っていないという状況ですね。それらに対して、行き着くところまで行ったら、どうなるか見せてみようというのが日本館の方向だったわけです。これは参加した大多数の建築家のオリエンテーションに対する批判ですね。
三つ目は、われわれの都市というものは、様々な記号で成立しています。最も新しい建築の方向付けというのは、建築を記号で捉えていくという考え方です。僕自身もそういうことをかなり言ってきました。ところが、震災が見せた問題は、都市がそういう表層の記号だけで見えていたはずなのに、現実は、その表層はパッと消えて構成している物質しか残らない。木やコンクリートや石という、われわれが抱いていた都市、あるいは建築の一番基本的な正体が見えたわけです。それは、この数十年の間に考えられきた建築界の都市論に対する批評ではないかという感じがしています。
四つ目は日本の行政に対する批評です。政府には、復興計画を組み立てていく責任があるはずです。しかし、一年以上かけて政府内の専門の復興委員たちが議論してきたにも拘わらず、歴史に残るようなものを何もつくってくれなかった。都市計画自身も破綻している。日本においての復興計画に対する責任を持っているはずの国と自治体が何もできなかった。それに対して有効な提案ができなかった建築家も含めて、全体に対する批評を試みたわけです。復興計画はいくらでもありますが、それを日本館で展示しても誰も見てくれないでしょうね。外国で、おっと思わせるような力のある提案はない。この部分を省略したということは、日本政府に対するネガティブな姿勢を表明しようという気持ちがありました。」
(磯崎新×二川幸夫「地震計としての建築家」)