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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<amour-de-soi(自己愛)⇔ amour-propre(自惚れ)

「では、ねたみとはなんであるのか。母親の乳房を吸う兄弟をもうひとりの兄弟がねたむという、アウグスティヌスの場面にもどろう。このとき主体は、〈他者〉が価値ある対象を所有していることをねたんでいるのではない。むしろ、その対象を享受する〈他者〉の能力をねたんでいるのである。だから彼にとっては、対象を享楽する〈他者〉の能力を破壊することである。それゆえに、ねたみは、倹約、メランコリーと合わせた三幅対構造のなかに位置づけられるべきである。それらは、対象を享楽することができない状態、そしてもちろん、この不可能性そのものを再帰的=反省的に享楽する状態がまとう三つの形態である。ねたみの主体──対象を所有そして/あるいは享楽 jouissance する〈他者〉をねたむひと──……
 このねたみの過剰性は、ルソーのよく知られた、とはいえじゅうぶんい検討されていない区別、すなわち、自己中心主義、自己愛 amour-de-soi(自然の自己への愛)と、自尊心 amour-propre、倒錯的に他者よりも自分を好む傾向とのあいだの区別の基盤にあるものだ。後者において、関心は目標の達成にはなく、目標達成上の障害を破壊することにある。

原始的情熱は、幸福に向かってまっすぐ進み、その情熱に直接結びついた対象だけを問題にする。また、その原理となるのは自己愛だけである。原始的情熱は本質的にやさしく、愛すべきものである。しかしながら、〔対象への接近をさまたげる〕障害によって対象から意識をそらされ、到達すべき対象ではなく、排除すべき障害のほうに気をとられると、この情熱は性質を変え、忌むべき短気なものに変わる。このようにして、高貴で絶対的な感情である自己愛は、自尊心、すなわち、自己を他人とくらべる相対的感情、好き嫌いを要求する感情に変わる。後者の享楽は、純粋に否定的なものである。それは自分自身の幸福ではなく、他人の不幸だけに満足を見出そうとする。(『ルソー、ジャン=ジャックを裁く──対話』)
したがって邪悪なひとは、「自分の利益だけを考える」自己中心主義者のことではない。本当に自己中心主義的なひとは、自分の利益のことを考えるのにせいいっぱいで、他人を不幸にするひまなどない。悪人の第一の悪徳は、まさに、彼が自分よりも他人のほうに関心があるということである。ルソーが記述しているのは、ひとつの厳密なリビドーのメカニズム、リビドーの備給先が対象から障害にうつるという逆転のメカニズムである。これは原理主義的暴力にも当てはまるだろう──そう、オクラホマの爆破事件にも、ツイン・タワーへの攻撃にも。両方のケースにおいて問題になるのは、純粋で単純な嫌悪である。両者において本当に重要であったのは、オクラホマ・シティ連邦政府ビル、ワールド・トレード・センターといった障害を破壊することであって、真のキリスト教的あるいはイスラム教的社会の実現という高貴な目標ではない。
 平等主義を額面どおり受けとってはならない理由は、ここにある。平等主義的正義の概念(および実践)は、ねたみに支えられるかぎりにおいて、他者のためになにかを断念するという標準的な考え方が次のように転倒されるのを当てにしている。「それを断念してもよいですよ。そうすれば、ほかのひとは(ほかのひとも)それを手にしない(できない)でしょうから!」悪はここで、犠牲の精神に対立するどころか、犠牲の精神そのものとして現れる。この精神は、自分の幸福を無視する覚悟ができている。ただしそこには、わたしが犠牲になることで〈他者〉から享楽をうばくことができれば……という条件がついているのだが。」
(ジジェク『暴力──6つの斜めからの省察』)
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