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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<借景小説批判序説──構成力の有無

「自然〔じねん〕というのは、対象としての自然〔しぜん〕ではなく、一種の働きとしての自然なんですが、自ずから然らしむることですね。自ずから成るという、いつの間にかこう成ったんだ、自分の意志ではない、誰が働いたわけではないが、いつの間にかこう成ってしまった、と。そういう言い方になってきますと、どこにも主体がなくて、何か自然というべき働きがあって、その結果としてこう成ったのだ、ということになるわけですね。
 こういう「主体」の欠落を政治的に批判するのは、たやすいことです。しかし、言語について考えていくと、必ずしも、ことはそう簡単ではありません。たとえば、どの作品にも作者がいます。しかし、作者がその作品の責任主体といいうるだろうか。作者は、書きながら、まさに言葉に動かされていくのではないだろうか。言葉は、作者の「意図」を裏切って、別の構造を形成してしまうのではないでしょうか。そうすると、言葉が「主体」だというべきではないか。作品は「作られる」のではなく、「成る」のではないだろうか。おそらく、そういう問いが生じてきます。もちろん、現代の西洋の批評家や哲学者もそう考えています。けれども、彼らがそう考えるようになったのは、比較的近年のことですね。日本の批評の場合、本居宣長は一八世紀後半ですが、すでにそういう認識に到達しています。それは、ことのほか宣長が、あるいは日本の批評が、より進んでいることを意味しているわけではないのです。ただ、日本の文学のありようが、西洋の文学のありよう、あるいは中国の文学のありようと、違っていたということです。
 このことは、古典や近世の文学についてだけいえるのではありません。「近代文学」、すなわち西洋近代文学を全面的にとりいれた段階、あるいは今日の段階においても、さほど事情は変わっていないのです。日本の文学は、文芸雑誌を見てもわかりますが、ほとんどが短篇ですね。中篇といわれているものだって、本当は短篇です。「私小説」という言葉がありますが、広い意味でいえば、すべて私小説だといってもよいかと思います。私小説の特徴は、世界全体を構成しないということです。
 日本の庭園の中で、借景という言い方がありますね。庭を造るけれども、その背後の山とか、あるいは庭の外にある樹木だとか、そういう景色を借りることが借景です。たしかに庭は庭として造られるんですが、庭だけで自立することはなく、その背後に実際の自然風景を借りているわけです。そうしますと、日本の作家の書くものは、いわば借景にもとづいているといえるでしょう。それは、なかば外的なレファレントにもとづいているので、言葉だけで自立しようとしていない。つまり世界全体を構成しようとすることが、まずないわけです。そういう人たちがいることはいます。それは「戦後文学派」と呼ばれていますが、この人たちはマルクス主義の系統から来ています。つまり、そこに日本的なものとは違う要素を持っていまして、世界全体を構成せずにいられないわけです。しかし、一般的にはそうではありません。
 このことは、日本の近代文学の特徴ではなくて、一般に過去に遡ってもそうなのです。世界を構成するという場合には、日本の近代文学の特徴ではなくて、一般に過去に遡ってもそうなのです。世界を構成するという場合には、この世の外まで含むことになりますね。世界全体なのですから、当然あの世も全部含まなければなりません。ところが、それに対する関心というのは、日本ではほとんどないのです。
 これは後に親鸞のことで話しますが、その親鸞も、地獄とかそういったことはどうでもいい。彼は、極楽も地獄もないと思っています。『源氏物語』もそうですが、「この世の外」というようなことに関心がないのです。ところが中国、インド、西洋世界、ダンテの『神曲』でもそうですが、地獄に関してたいへん詳しい構成がなされていますね。何番目の部屋には……、何番目の門には……、というふうに。ユートピアについても、そうです。ユートピアというのは語源的に考えて、どこにもない世界ということです。どこにもない世界に関しても、彼らは徹底的に構成します。日本の場合は、浦島太郎に出てくる程度であって、ユートピアなるものを明確に構成するような意欲を持っていない。
 それは、世界を構成するということに対する必要を、ほとんど持ってこなかったからだと思います。……
 言葉に関してでも、そうです。西洋であれば、構成的であるということは、いわゆる意味によって言葉を支配しているというようなことになりますが、日本の文学において意味が支配しているということは、ほとんどありません。まず言葉がある。基本的にいって、言葉遊びですね。シニフィアンのつながり、自然〔じねん〕にできあがっていくようなつながり、その中でなされているわけで、けっして意味の支配というものが貫かれたことはないと思います。
 意味が支配するというのは、マルクス主義とかスターリン主義のような場合です。日本では意味をもって強制する否定力に対しては、しばらくは興奮したとしても、すぐそんなものは耐えがたいというふうになっていく。他方、西洋のように、地獄に対するあれだけの構成力があるとするならば、実際に生きた地獄もつくれるわけです。アウシュヴィッツにしても、ソ連の収容所にしても、生きた地獄ですね。日本では、人間をあれだけ合理的、計画的に排除するということをやったことはない。一時的・発作的な排除ならありますが。」
(柄谷行人「日本的「自然」について」)
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