「フロイトは、モーゼがエジプト人であり、そして殺されたということを精神分析的に解明していって、その結果として何がいいたいのかというと、宗教は神経症の症状から説明しうる、ということです。ただ、そうはいいながらも、ユダヤ教あるいはモーゼの一神教が、他のあらゆる世界における宗教あるいは共同体と違ったものをもたらしたのはなぜかを、フロイトは問わねばならない。「偶像崇拝の禁止」ということ一つをとっても、これは大変なことなのです。キリスト教の場合は、たちまち偶像崇拝に戻っている。いろいろな神々を摂り入れています。まずマリア崇拝というものがありますが、これはすでに多神論です。しかも、そのほかにセイントへの崇拝もあるわけです。日本の仏教の場合もそうですが、もともとは人間にすぎないのを何とか仏ということにしてしまって、どこそこに行けば病気が治るとか、どこそこに行けば試験に通る、といった分業ができているわけですが、カソリックの場合もそれに似ています。
そういう多神論の場合の神というのは、自分は無力だが、その無力を何とかカバーしてくれるものの、結局のところ、自分自身の本来あるかもしれない力なりを外的に思い浮かべたもの(自己疎外したもの)ということになりますね。それは、ある意味ではナルシシズムと呼んでんでもいいと思います。ですから、同時にそれはいつも呪術的なものです。つまり、祈れば何とかしてくれるのであり、祈るということが自分の願望を実現することになるのですから、そういう場合の宗教というのは、本質的には呪術だと考えられます。
どんな宗教でも、一般的に流行っているときは、必ず呪術的なものがあると思います。信仰に入ったおかげで、病気が治ったとか、商売がうまくいったとか……。うまくいかなくなると捨てて、次のところを探す。そういうふうに、宗教を遍歴する人が多いですね。これはある意味では、健康法を遍歴する人が多いのと同じことです。普通に考えられる宗教というのは、どうしてもナルシシズムの延長になります。ここで念のため注意しておきますが、ナルシシズムとエゴイズムは違います。ナルシシズムは、しばしばエゴイズムを超えたものとして現れます。理想のために死ぬとかいったぐあいにですね。共同体の宗教は、そのようなナルシシズムとして、エゴイズムを否定するのです。
ところが、モーゼの神というのは、どういうわけか共同体に対する徹底的な否定を持っている。つまり、そういうナルシシズムに対する徹底的な否定を、最初から持っている。モーゼの神は、ユダヤ人が共同体の側に行くことを怒るのです。フロイトのある部分を読んでみますと、今のイスラエルのように、戦争によって別の国家に侵入して国を建てるというようなことはモーゼの神なら許さない、と述べているわけです。すると今のイスラエルはまさにそれをやっているのだから、これはもう一方のヤーヴェの神がやっているのだろう、とでもいうほかありません。「世界宗教」と私が呼ぶのは、もちろんモーゼの神のことです。」
(柄谷行人「世界宗教について」)