「……作品とは正に出来上がった判断に対抗する一つの方法である。例えば崇高な美に感歎したすぐ後で中庸の美を味わうことは出来ぬ。そういう時は人は眼を伏せて通る。軽蔑するのは正確に感じることではないし、感歎するのはなおさらそうだからである。大切なのは是認したり繰り返したりするばかりで、何ものも愛さない社交人を警戒することだ。「赤と黒」の一題辞を思い出していただきたい。(二十九章「退屈」)「情熱のため身を滅ぼす、よかろう。が、自分が持っていない情熱のために身を滅ぼすとは。悲しき十九世紀よ!」。同じ思想は繰り返し現われる。自分が愛しているか否かを知り、同時に愛する対象を知る、自分が感歎しているか否かを知り、同時に感歎する対象を知る、とは何という奇妙な困難であるか。そして美的情緒は(彼にあっては第一に音楽的情緒は)一層混成された情緒の一種であるから、もし模倣によって感歎し始めるなら、あらゆる内部的存在にとって危険は多い。たとえ献身が行為によって証明された場合でさえ、虚栄心にすぎない。「赤と黒」のノルベエル・ド・ラ・モオル、クロアズノアその他の侯爵は、愛するに「相応しい」女を愛し、生命より高く評価するに「相応しい」事情のために勇敢に死んで行く。しかも彼等は何も感ぜず、愛していない。彼等自身の存在の真実は彼等には絶対に見えない。同じ理由から育ちのいい人間は自分が父を愛しているかと自問しない。この疑問を考え出すことすら敢えてなし得ないのだ。この一事をもって既に彼は自己に嘘を吐いている。恐らくは万事に嘘を吐く。スタンダアルが自己を見る眼は明らかに観客の眼でない。疑い深い、殆ど悪意をもった眼だ。つまり健康な理性は安価で手に入るものでないわけである。合法的権力にとってまことに不便な事情だ。ジュリアンは父を愛する義務があるとは考えない。ブリュラアルもこの点劣らず勇敢である。この犬儒主義は一見人の気を悪くするが、それ自身では大して不都合なものではない。優しい魂が求めるものを理解しなくてはならぬ。その魂は正確に感じたいと願っているので、決して他人の教えに従って感じたいとは願ってはいない。真の恋愛の特色は自然にそうした掃除が行われることにある。が、この作業も全然幻像を伴わないわけにはいかない。牢獄に入って初めてジュリアンは一度もマチルドを愛したことがなかったと悟る。と同時に、どんな証拠があるにせよマチルドも彼を愛していないことを見抜く。(三十九章「画策」)「マチルドの偉大な魂にとってはいつも公衆と他人が入用だった、云々」」
(アラン「スタンダアル」)