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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<切ったら血の出る人間の話

「痛い、痛いと云い、それは確かに痛いのだが、痛みはそれだけ取り出してみれば、不思議な感覚である。十歳にもならない頃、膝の関節を病んでいた時に私は、寝ては痛いといって泣き、立っては痛いといって泣き、座っても痛いといって泣いていた。にもかかわらず、痛みそのものには、不思議な優しさがある事をその時私は識った。痛みは、苦しみを生み、辛さを生む。だが、痛みは、直接に、そのまま苦しみや辛さであるわけではない。辛さや苦しみのような、平面というか延長をもったものとは、明らかにことなった、直接的でその場かぎりのものが痛みにはある。それが、その時には勢いで分からずに負ってしまい、しばらくたって疼きだす喧嘩の傷の痛みであっても、それは反復でなく、その瞬間のものなのだ。
 …………
 ……痛さとは感覚というよりは、もっと本質的な、この世界にあるという了解のように思えてくる。あるいはほかの総ては、痛みの上に作って見せた表情ではないのかという想いが浮かぶ。
 地下鉄の路線図をみていて、ふとある人が住んでいるという街の名前を見つけ、胸に痛みを覚える。その痛みが容貌を備える場合もあるのだけれど、ほとんどの場合そのまま、ただ痛いだけだ。その人がくれた、スコットランドのヘブリティーズ諸島のウィスキーが、ヨード・チンキのような匂いで目や鼻を突くように、まず何よりも、胸が痛いのである。
 ただただ痛いだけで、それを恋しさ、悩ましさに引き伸ばした時点で、そこから先はすべて演技の、文化の領域に入ってしまう。
 …………
 折口信夫は、「国語と民俗学」という文章の中で、平安時代の「いとほし」という言葉には、「いたむ(痛む)」を語源とする「いとはしい(嫌だ)」と「いとしい(愛しい)」という二つの意味があったようだと推測している。さらに折口は、この「いとほし」という言葉が、場合場合によって二つの意味を使いわけているのではなく、双方を併せもった意味であったと書いている。……
 ……私たちは今日なお、痛みの純粋さのなか、愛しさと嫌悪がともに湧きでてくる瞬間を生きている。厭わしさと、愛しさという、人の感情の根本を、それぞれに痛みの中に見つめた時に、私たちは平安の精神を呼び返すだけでなく、自分がこの世界にあるということの、根本に痛みがあることを感じ、知る。肌に、指に、胸に感じる痛みは、自分が自分であり、生きてここにあるということのもっとも直接的な明証であり、人に譲ることも譲られることも出来ない、最初のリアリティなのだ。」
(福田和也「われ痛む故にわれあり」)
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