忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<本来性(Eigentlichkeit)

「彼はアンヌ=マリーを眺めていた。心は平和にみたされていた。この地上に今なお不幸な人々、おろかな人々、不器用な人々が存在するなどということがありうるのだろうか? 彼らにとってすばらしいこの一瞬が、嘔吐と恨みと後悔の時であるなどということが? おお、どうしようもないキリスト教徒たち! キリスト教徒ではないとしても、運に恵まれないあわれな人々がなんと多いことだろう!… しかし二人が抱えこんだ単純な秘密は、もしかしたら彼らが思っているよりもはるかにまれなのかもしれなかった。〈つまらぬ罪などは知らぬ…〉 しかし彼らは彼らなりに苦しんだのだった。なんと多くの闘いがあり、どんな苦悩にさいなまれたことだろう! なんと多くの暗闇をくぐりぬけ、救いの手をこばんだことだろう! 彼らはその報酬を味わっているのだった。これ以上みごとな褒美は想像できなかった。
 これほどにも固く結ばれており、充実している幸福の現実に、彼は呆然とする思いだった。官能のよろこびが意識を麻痺させていたのだろうか? いや。数か月間、意識が欲望によって無に等しい状態におかれていたのはたしかだった。しかしそれが機敏さをとりもどし、聴覚の鋭さも視覚の用心深さも回復していた。意識があえて官能の周辺を調べ、官能を測ろうとしていた。官能は落ち着きはらって、そういう向こうみずな分析に同意していた。生きられた生は、あらゆる夢をしのいでいた。
 ミシェルはなにひとつほしいと思わなかった。しかし愛する娘をみつめながら、自分がかぎりない感謝にみちあふれているのを感じた。そこにはすでに鎮められたすべての欲望がふくまれていた。どんなにつつましい女にも、金で買った女にさえ、これまでいつも彼は感謝してきたのだった。この娘にはどんな感謝を負っていたことだろう! 彼はなにも欲してはいなかった。ただ愛にみたされていた。その愛は彼のなかでずっしりと重く生きていた。しかしかつてはあれほどにも残酷だったその圧迫が、今は無上のよろこびにかわっていた… しかし古い思い出の数々よりもっと遠く、心の安らぎや感謝の念よりもっと深いところで、いったいなにがあんなふうに反響しているのだろう? ほとんどとらえられない、おし殺されたようなティンパニとトロンボーンのひびき、くらべもののない澄みきったひびきを彼は聞きわけた。死にほかならなかった。死もまたそこにいるのだった。その周囲に悲しみはまったくなかった。彼は死の存在を完璧に理解した。死は詩を聖別し、二人の味わう快楽の完璧さを聖別していた。大きな幸福、偉大な作品との出会いに、死がまちがいなく立ち会うことは彼にもわかっていた。この愛がある以上、そして彼の生涯でこれ以上に美しいものは決してなにもありえない以上、彼はもはや死をおそれる必要はない、たとえ死が歩を進め、迫ってきても、おしもどそうとして空しくもがきつづける必要もない──死は彼にそう告げていた。」
(リュシアン・ルバテ『ふたつの旗』)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R