「千絵 それなら、ノジックのような立場からのロールズ批判についてはどう思う?
猫 たとえば、他人からの特別の恩恵を受ける必要がまったくない人というのはいるだろうけど、他人からの危害を受けない必要がまったくない人というのはいない。だから、それはだれにとっても必要不可欠な規範になるだろうな。そういう最低限必要な社会規範が「正義」と呼ばれるにふさわしい。もちろん、危害を与えることが喜びであるからこそ危害を与えるということが存在するわけだから、このような規範が存在することは、たとえば危害を与える者にとって、個別的には悪いことでありうる。しかし、まさしくロールズ的考慮によって、一般的にはそういう正義規範の存在が必要であることに、たいていの人が賛同するだろう。それなしでは、たいていの人がたいていの場合にうまくやっていけないからだ。さて、その最低限必要な社会規範はどこまでの範囲だろうか。ここで人間たちの意見は分かれる。いや、正確にいえば利害が分かれる。ある点を越えれば、個別的には悪いことである場合の考慮がその規範の必要性を上回る人が出てくるからね。
千絵 それは、功利主義の考え方でいえば、消極的功利主義と積極的功利主義の違いに対応しているんじゃない? 全体として見た場合の社会に不幸をもたらさないための規範と、全体として見た場合の社会に不幸をもたらさないための規範と、全体として見た場合の社会に幸福をもたらすための規範とを分けて考えて、前者の消極的なほうが正義で、後者の積極的なほうが慈善だとすると、正義のほうはほとんどの人が選ぶだろうけど、慈善のほうはそうとは限らない、というふうに。
猫 そうだな。そう見れば、まさにそのことこそが、ロールズ的社会契約のみならず、功利主義に対する批判にもなるわけだ。両方とも実現の条件を欠いているという観点からの批判だ。実際の社会契約では、弱者を保護する福祉や慈善は、少なくとも当然のこととしては帰結しない。それを契約すべきかいなかにかんして、争いが起こりうるし、現に起こっているのだから。ロールズ対ノジックも、まあ、その一種だ。
祐樹 でも、消極的功利主義と積極的功利主義の対比だけで説明がつくわけではないよね。だって、福祉や慈善をぜひとも必要とする弱者もいるけど、逆に、最低限の正義さえ必要とは感じないような強者や博徒もいて、その間にもいろいろな段階があるだろうから。……
猫 それはそうだ。だから、社会がどこで安定するかは偶然の諸事情にゆだねられるほかはない。慈善はもちろん、社会全体の幸福という理念も、実現の条件は一般的には存在しない。……
最低限必要な社会規範にだけ「正義」という名前を与えるとすると、福祉政策は本当は正義ではなく慈善だろう。しかし、まさにそうであるからこそ、正義という名を必要とするのだ。つまり、それを正義と呼んでよいとすることもまたその慈善の一部に組み込まれなければならない。貧乏人は金持ちから恩恵によって金を恵んでもらうのではなく、金を与えらえれるべき正当な権利があることにならねばならない。つまり、金だけではなく、それが正当な権利であるという認定もまた恵んでもらわなければならないのだ。それゆえ、恵んでもらったというその事実を抹消するというそのことも恵んでもらわねばならないわけだ。だから、恵んでもらった暁にはその事実は抹消される。たいていは倫理学という学問もその工作に一役買わされることになる。もちろん、それを解明するのもまた倫理学だ。そこが倫理学というものの妙味だな。まるでスパイ戦争のような。
千絵 それはそうかもしれないけど、わたしはノジック的な考え方とは逆に、そもそも才能のある人や努力した人がなぜそれに応じて優遇される権利があるのかがわからない。
猫 それはロールズの場合と同じ。そうであったほうがありがたい人達の利害を代弁しているイデオロギーにすぎないから、根拠なんかないさ。」
(永井均『倫理とは何か』)