Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編
汝自己のために何の偶像をも彫むべからず
小説を書いた動機は自分の気持ちに区切りをつけるためだった。気障に言えば「青春への訣別」みたいなものである。一度書いてざっと書きなおして、それでも気に入らなくてもう一度書きなおした。小説という形式を選んだのは、それが自分の気持をいちばん正直に表現できそうに思えたからだ。もちろん本当に正直には書けなかったけれど、かなり正直に書けた。書き終えた時に、書き始めた時とは別の場所にいるような気がした。(「新人賞前後」『群像』一九八二年六月号)二年以上後にも、村上春樹は処女作の「僕」と同じく、「正直」という語を用いてほぼ同じことを記した。両者の異なりは、当然にも作中の「僕」が自分の書いているのは小説だと言明しなかった点にあるが、八年後の作者は、右の言葉を敷衍してさらに次のように述べた。
でもその作業を進めていくうちに、正直に書きこもうと努力すればするほど文章が不正直になっていくことに僕は気づいた。文章を文学言語的に複雑化させ、深化させればさせるほど、そこにこめられた思いは不正確になっていくのだ。要するに、僕は言葉の二次的言葉性に寄りかかって文章を書いていたのだ。これじゃ駄目だ、と僕は思った。それは僕の求めていることではない。(傍点引用者)(「台所のテーブルから生まれた小説」)重複を怖れず引用を重ねるのは、村上はるかが首尾一貫して「正直」という語を使い続けたことと、「正確」な「思い」に信頼する彼には疑いもなく「求めている」何かがあった事実を確認するためである。「表現」をめぐる問題の袋小路に入っているように見える彼は、いささかも「言語と思惟」に関する、例えばヴィットゲンシュタインの哲学などに助けを求めない。あくまでも自前の、「僕としては自分の気持ちをただただ正直に文章に置き換えたかっただけである」(同右)という単純な信念を反復する。この単純さこそ、本当はエズラ・パウンドやW・H・オーデンのような現代詩の革新者が抱き続けた信念であり、大成に必要な表現者の愚直さに他ならなかった。彼らもまた、良い詩とは表現と表現されるものが一致した詩であるという類の詩論を書いた(パウンド「真摯な芸術家」、オーデン「書くこと」)。
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