「ここで、予想される反論に答えておこう。
その反論とは、「自分は愛し合って彼と結婚したのであって、決して「貨幣」のように扱われてはいない」というものである。「彼氏」の側から言えば、「彼女を貨幣のようには扱った覚えはない」となるだろう。もちろん、個人がこう考えるのはまったくかまわない。
しかし、「だから自分はホモソーシャルの構図に収まってはいない」ということにはならないのである。ホモソーシャルの構図と愛し合っているということとはまったく矛盾しないのだ。
端的に言えば、世の中ではホモソーシャルが機能しているけれども、本人同士は自分たちがただ愛し合っているだけだと感じてくれたほうが、ホモソーシャルな社会にとっては都合がいいのである。……それは、ホモソーシャルが一つの思想、イデオロギーだからである。イデオロギーが最も円滑に機能するのは、そのイデオロギーが忘れられているときである。
…………
ホモソーシャルについてもう少し詳しく考えておこう。
ホモソーシャルについては、上野千鶴子が「同質集団的」とか「同質社会的」という訳語を提案したことがある。これは異質嫌悪とか他者嫌悪といった概念とセットで捉えているからである。……この訳語は定着しなかったが、これによって見えてくるものがある。
第一の問題は、均質な社会は異質なものを排除することによって均質になるところにある。そこに、排除の原理が働いているわけだ。第二の問題は、何を基準に均質とされているのかというところにある。ホモソーシャルでは男同士を基準としている。均質という中には女性は入らない。つまり、均質性を保つために社会から排除されるのは、社会の構成員の半分を占めているはずの女性なのである。
排除することで何が可能になるだろうか。品のない言い方をすれば、ハンティングが可能になるのである。いったん排除した他者をどれだけたくさん獲得できるかというゲームがはじまるわけだ。あるいは、社会が美人だと認めた女性を手に入れるゲームがはじまるわけだ。数と質をめぐるゲームである。
たとえば、社会学で言う「見せびらかし効果」がそれに当たる。男が自分の社会的地位や富を誇示するために、多くの女性と交際したり、美人の女性を妻に迎えることを言う。これは、非常にわかりやすい形で行なわれている。プロ野球選手やサッカー選手と「女子アナ」との結婚だ。一つには美人だから、もう一つには有名だから、「見せびらかし効果」が大きい。
これが男の場合の「見せびらかし効果」だが、女性の立場としては、自分の美しさを社会に誇示するために、社会的にステータスがあり、そして富のある男性を選ぶ形を取る。自分の美貌と男性の社会的地位や富とを引き換えにするのである。これを個人的な感情のレベルで言えば、「尊敬」という言葉になる。女性が結婚を意識した場合、「尊敬できる人」という条件が上位にくるのはよく知られている。……「尊敬できる」ということに相互性がない場合は、女性よりも男性のほうが上であることを求めていることになる……
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これらは個人レベルに現れたホモソーシャルを見た場合だが、女性がこういう心性を持ってくれれば、男女の利害が一致することになる。女性が結婚したい男性像の中で「尊敬できる人」が上位に来ている限りは(そして、これが男性が結婚したい女性像の上位項目に入らない限りは)、ホモソーシャルの社会は安泰だろう。……
ホモソーシャルには社会的な機能がある。ホモソーシャルはいったん女性を他者化するから、女性をモノのように扱うことができてしまう。これが、「貨幣」のように女性を交換することで男社会が成り立っているということである。女性蔑視の形で女性をいったん社会から排除するが、女性なしでこの世界が成り立っていくわけではない。そこで「貨幣」のように獲物として手に入れた女性、あるいはいま自分の手の中にある女性を交換し合うことによって男性社会が円滑に回っていくようにしなければならなくなる。……
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もちろん、人間関係は相互的である。ホモソーシャルな社会は女性蔑視と引き換えに、男性には過酷な生き方を強いている。女性蔑視は「女らしさ」と言い換えられ、過酷な生き方は「男らしさ」と言い換えられる。そのことで、人はホモソーシャルという思想を忘れる。あるいは、目をそらす。では、女性蔑視がもっと個別的に現れたら、どういう形を取るだろうか。
それは、女性の局所化である。女性を身体に局所化し、さらにそのパーツに局所化する。たとえば、村上春樹は女性を乳房に局所化して描く傾向がある。いや、この本の方法から言えば、村上春樹文学の「僕」たちは女性を乳房に局所化して評価する傾向があると言うべきだろうか。」
(石原千秋『謎とき 村上春樹』)