「冒頭のシーン。──アキラは「ぼく」を朝早くにたたき起こし、「よう子ちゃんオレのこと、どう思ってるんだろ」と相談する。「ぼく」が「よう子はおまえのこと好きだよッ」と言い、……アキラは「でもやっぱりさあ、その
好きとあっちの
好きとは
好きの意味が違う……」としつこくて、それに対する「ぼく」の反応はこうだ。
「好きは全部おんなじだ。 人間には近づきたい気持ちと遠ざかりたい気持ちの二つしかないんだよ」 乱暴のようだがぼくはかなり本気でそう思っているから言葉の勢いに説得力もあったはずで──
あくまでもアキラは「その好き」(親密さ/親しげな感じ)と「あっちの好き」(性欲)の区別・断絶にこだわるが、ここで両者はともに「近づきたい気持ち」と呼ばれ「おんなじもの」、質的にいっしょくたなもの、連続的でつながったものにされている。
つまり「性欲」は、まさに自らの分身として、自分と非常に近似的なコピーとして、リラックスした「親密さ」を生みだすのだ。作品の終わりの方で、「ぼく」とつきあっている工藤さんが、「ぼく」とのセックスを「日課じゃなく」した
かわりに、アキラやよう子や島田のいる空間とすごくくつろいで親密な関係を築いていったように。
楽しげな雰囲気、親しげな雰囲気が人間や動物のいる空間を満たすには、まずは性欲があって、そしてそれをいかに
大気中にバラまくか、いかに生(ナマ)のいわゆる「性欲」としてでなく
自然に外へ放出するかが問題となるのではないだろうか。気楽でいるための「技術」とは、性欲の
自然な流出にかかわることがらに他ならない。
よく「若い頃は性欲が盛んで、年をとるにつれだんだんと衰えてくる」といわれている。そんなのは物語的な迷信だ。若いうちは確かに性欲は盛んだが、しかしあんまり盛んすぎて何の努力もせず自動的にそれを大気中にバラまいてしまい、そうして「世界」と「境」はわけもなく無闇に楽しくわくわくするもの、みずみずしいものとなって現れてくる。このとき、悩んだり苦しんだりする行為も含めて、すべてが愉快ですなわち「生きること」自体が嬉しい。
これが年をとると、性欲がただの「性欲」として徐々に身もふたもなく狂暴になるかわりに、肝心の「世界」の方はどんどんつまらなく平板になっていく。まったくどこへもつながらない生(ナマ)の「性欲」、閉鎖的で重苦しい即物的な「性欲」を人間が実感できるのは少なくとも三十を過ぎてからじゃないかと思う。
…………
保坂和志のつくる会話のうまさには定評がある。おしゃべりのシーンなんて書くのは一見やさしそうだが、しかし世間の多くの小説の中を探してみてもまともな会話は案外と少ない。大抵、会話(セリフ)は冗長な同語反復であったり、地の文でもやれる論理的な説明を二、三人に分散し、くだけさせただけだったり、または「内容のある思想」の開陳であったりする。
そうじゃなく、もっと力がぬけて、「無責任」で、のびやかなものをこそ日常の「会話」と呼ぶべきだ。──『草の上の朝食』の連中はみんなよくしゃべるが、それで別に何か内容や意味をやりとりして互いにコミュニケートしたり共感したりしているのではない。……
彼らは普通に一緒にいて、
ただしゃべってダラダラくつろいでいるだけ、即物的に
声で大気をかきまぜているだけであり、しかし多分このようにしてのみ性欲は
自然に外へと放出される。空気と物理的・音響的な関係をもっている声、身体の奥底と空気をつないでいる声という媒介を通じ、無事大気の中へとバラまかれていくわけである。
会話、性欲、そしてバラまかれた性欲としての気楽で楽しげな雰囲気、すなわち世界をおおう幸福な「愛」。──これら三つはいつもセットになっている。周知のように、プラトンの『饗宴』は哲人たちが飲み会の席でエロス(性欲、愛)についておしゃべりしている模様を描いた対話篇だが、プラトンが「愛」を語るためにはどうしても「対話/会話」という形式を必要としたのだと思う。……散文以外の対話篇で書かざるをえなかったからこそ、古典ギリシアはエロス(性欲、愛)の存在を発見できたのだとは言えないか。」
(石川忠司「愛とおしゃべりと性欲のトライアングル」)