「問題は外面的な罪ではない。しかし内面的な良心の問題でもない。良心は「しかたがなかったのだ」とささやきかけるだろう。しかし古山氏がこのとき視たのは、われわれが生きているかぎり回避することのできない《罪》である。誰がこれをまぬかれうるか。《こういうことは、自分だけ逃げればいい、と割り切ってしまうわけにもいかないのだ》。ここには、問題を戦争にあるいは政治に帰してしまうことのできない何かがある。また、私は加害者でしたと告解してすますことのできない何かがある。どうすることもできない何かがあるのだ。
私は古山高麗雄は自分自身に対して正直であると述べた。だが、なぜひとは正直であらねばならないのか。あるいは、いったいひとは何に対して正直であろうとしているのか。……
古山高麗雄はおそらく右のような問いを幾度も問うたにちがいない。本当はひとは何をやってもいいのだ。それを責めるのはたかだか「社会」の法にすぎない。自分がこうするということにはいかなる大義名分もないし、それを他人に強いる根拠もない。にもかかわらず私はこうする、それは私がこうせざるをえないからだ。誰が命じたのでもない。また私の思想や観念が命じたのでもない。それなら、私がこうせざるをえないという促しはどこからくるのだろうか。古山氏にはわかっている、だがそれをいうことはできない。
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古山氏がここでいっている「自由」というのもまたそのようなものである。氏は「自由」をリベラリズムのようなものとしていっているのではない。また、躰は強制されているが内面は自由だといっているわけでもない。その種の二元論は、良心的な知識人が戦争中逃げこんだ自己正当化にすぎないが、古山氏のいう「自由」には、これ以上人間が後退することがありえないようなぎりぎりの核をつかんだ能動性がある。つまり、古山氏は、どんな「社会」も侵しつくすことのできない、そして私自身にとってさえ謎であるような「私」というものを、「自由」と名づけたのだ。
言葉は「社会」に属しており、私の内面もまた「社会」に属している。この意味では、ひとを強制するのは軍隊だけではない。「社会」というものが個人に強制するのだ。「自由」とはそれらに対してどこからか否という声であり、それは少しもポジティヴな内容をもたない。ポジティヴなものは社会的なものに属しているからである。それなら、古山氏はあの拷問に加担した行為において何を視たのだろうか。先に、私はそれが個人が生きているかぎり回避することのできない「罪」だと述べた。私の考えでは、おそらく古山氏はそのとき「自分が死んでしまえば」片がつくというようなものでなく、また勇気があればまぬかれうるようなものでもない問題にはじめて出会ったのだ。それまでの氏は、結局ひとりぼっちになりさえすればよかった。むろんそれは強い精神に支えられなければ不可能なことだが、ここで古山氏が出会った矛盾はそれとはちがっている。この矛盾は、死にたいと思っていながら弾が落ちてくると歯がガタガタ鳴るのに似た、意志によってはどうすることのできないものだ。それはもはや「わが心の善くて殺さぬにはあらず」とでもいうほかないものだ。こういう認識をもった人間に「美談」などありうるわけがないのである〔ラスコーリニコフのように〕。
古山氏は内的な人間である。内的というのは、衰弱した神経や傷つきやすい自意識を露呈することではない。そういうものがわれわれの間では文学的感受性と錯覚されているが、私のいう内的な人間はむしろその逆である。彼は他人を意識して動揺することはない。彼は一見弱いが、さまざまな仮象をとりさってしまえば、誰の眼にもその強さは疑いなく感受されるのである。
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それをいいかれば、古山氏の小説にはどんな自己憐憫もない、つまりどんなかたちであれ自己の存在をいとおしむという意識がないということである。自虐もまた自己憐憫の形態にほかならないので、いわゆる「弱者の文学」が秘めているのは自虐を通して優位を獲得しようとする悪意であるが、古山氏の作品が示すのはある優しさである。この優しさはどこからくるのだろうか。いうまでもなく氏の《自己放棄》からくるのである。
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古山氏は自嘲していないし、他人を嗤ってもいない。自嘲することも他人を嗤うこともたやすいが、氏の小説のヒューモアの質はそういうものとは異なっている。それは自己を突きはなして見ることの自在さといってもよい。それは他人を見る眼が高すぎも低すぎもしないということにあらわれている。そこにはどんなこわばりもない。なぜなら氏は他方からどう思われるかということに関して、つまり他者からみられた自分というものに関してほとんど無頓着だからである。
さらにわれわれが注目すべきなのは、古山氏における知性である。私は難解な本を読んで学びとるようなものを知性と呼んでいるのではない。「自由」ということばが、空疎な観念としてでなく、まぎれもない個性として刻みこまれている人間、そしてそれが目立たず、いかなる主張ともならず、ネガティヴだが強靭な「知性」として働いている人間、そういう人間はわれわれの知る「知識人」のなかでは稀有である。その意味では知性なき知識人がわれわれの風土のなかで依然支配的である。」
(柄谷行人「『古山高麗雄集』」)