「利益を一つの権利として考え、利益を自分が為していない活動で得をする権利として考える怨恨〔ルサンチマン〕の人間は、彼の期待が裏切られるや否や、急に激しく非難する。また、欲求不満や復讐が怨恨のア・プリオリ性のようなものである以上、彼の期待がどうして裏切られないことがあろうか。私が誰からも愛されないのはお前のせいだ、私が人生に挫折したのは君のせいだし、君が人生に挫折するのもまた君のせいだ。君の不幸も私の不幸もやはり君のせいだ。われわれはここで、怨恨の恐るべき女性的能力を見出すことになる。それは、罪と罪人を告発するだけでは満足せず、過失者と責任者を意志するのだ。われわれには怨恨の人物が何を意志しているのか見当がつく。こうした人物は、他の人々が悪であることを意志し、自分がよいと感じうるために他の人々が悪であることを必要としている。君は悪い、ゆえに私はよい。これが奴隷の根本定式であり、それは、怨恨の本質的なものを類型学的観点から表わし、先に述べたあらゆる性質を要約的にまとめている。この定式と主人の定式──私はよい、ゆえに君は悪い──とを比較していただきたい。この二つの間の差異は奴隷の反逆とその勝利とを推しはかる。「評価する眼差しのこの転倒は怨恨に固有のものとして属している。奴隷の道徳は、それが生じるためには、つねにまず一つの対立した外的な世界を必要とする」。奴隷は、他者が悪いということをまず想定しなければならないのだ。」
(ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』)