「卑怯というと、いまの用いられ方ですと、ずるい手を使って、ウマいことをすることだと思われていますけれど、本来の意味は少し違います。卑しくかつ怯懦であるということですね。自らの節を見すえてそれを貫く誇りもなければ、進んで責任を取る勇気と潔さもなかった今回〔1996年の在ペルー日本大使公邸占拠事件〕の日本政府のやり口は、まさに卑怯そのものでした。強い力でおどされれば、すぐに態度を変える、守るべき立場を捨てる。それが卑怯者です。
卑怯はマスメディアも同じ事です。事件解決を報じた新聞は、どれもこれも、人質の日本人は全員助かった、ゲリラは全員が射殺された、という「生命」の安否が記事の中心になっていました。そこに何の疑問もない。「正義」が貫かれたのだ、無法な力に、正当なものが勝ったのだという喜びも感動もない。それに参画しえなかったという忸怩たる思いもないのです。要するにいまの日本人には、正義の感覚が全くないことがあらためて明らかになった。
「正義」だなどと言いだすと、野暮なこというな、と叱られるかもしれません。そこまで言わないにしても、今の日本人は「絶対の善なんかあるものか」と開き直ったり、「テロリズムにも倫理はある」といった空漠とした議論を展開しがちです。私が言っている正義とはもっと生々しいものです。どんなに圧力がかかっても、身を挺してでも自分の立場や価値観を貫くことが正義です。だから「卑怯」とは、その正義の反対に位置しているものです。
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ではなぜ日本人が卑怯になってしまったかですが、それは日本人が暴力というものを考えなくなってしまい、暴力に対して免疫がなくなってしまったからでしょう。日本人の想像力の中から暴力というものは完全に姿を消してしまいました。言論の自由ひとつとっても、自分の意見を貫き通すだけの覚悟、勇気があるのかということを前提にしないで、ものを言うようになってしまいました。ジャーナリズムがいい例だと思いますけれども、日本人は、何の覚悟もなくものを言っているのです。
公の場やメディアで発言をすれば、脅かされるのは当たり前であって、私ごときにだって脅迫はあります。そんなことを言ったって始まらないことです。はじめから覚悟ができていればいいのですが、それは一般の人も同じなのです。自分が暴力によって脅かされたとき、自分の尊厳をどう守るか。どうやって自分の節を曲げないで済むかという発想と覚悟が必要なのに、それがなくなってしまった。あっさりと本丸を明け渡してしまって、なんとも感じないのです。
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それではなぜ日本人が暴力を考えなくなったか。戦争に負けたこともひとつです。でも負けたとしても、もう少し名誉のある敗北の仕方もあったと思われます。吉田茂という人を私は必ずしも好きではないけれども、彼には敗者ではあるが、名誉を貫くという姿勢がはっきりとありました。それがいつの間にか日本人にはなくなってしまった。敗戦は過剰な反省ということとつながっていると思いますが、日本人は負けたことによって勝者におもねったのです。
強いものにおもねる。これが卑怯者の第一の生態です。勝者は正義であって、われわれのやったことはすべて間違っていたのだというふうになってしまった。戦ったものの名誉と、戦争犯罪という全然次元がべつなものまで、一緒くたにしてしまったのです。」
(福田和也『空白の終焉へ』)