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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<こころはいつもかくさびしきなり

「このような人〔高潔な人〕はまた、「自分とともに過ごす」ことを願う。そうすることが快いからである。なぜなら、このような人がかかわってきた事柄の記憶は喜びを与え、将来の事柄への希望は善きものであり、これらは快いからである。しかもその上、観想の対象も、この人にはふんだんにあるのである。
 また、この人が「相手」とともにもっとも苦しみ、もっとも喜ぶその「相手」とは、じつは自分自身なのである。なぜなら、いかなる時にも同じ事柄が苦しく、同じ事柄が快いのであって、場合によりこうした事柄が異なるということがないからである。というのも、この人はいわば、後悔がない人間だからである。
 それゆえ、こうして高潔な人には、自分に対してこれらの特徴が成り立っていて、かれは自分に対するように友人に対するので(なぜなら、友人は「もう一人の自分」だからである)、愛[フィリア:φιλία]もまたこうした特徴のどれかであり、このような特徴がそなわる人が友人であるように思われるのである。
 …………
 だが、ここまでに語られたことは、大衆にも、たとえかれらが劣悪な人間であったとしても、成り立つことのように思える。そうすると、人が自分で自分を気に入り自分は高潔な人間なのだと考えるかぎりで、自分への愛というものに与るのだろうか? しかし、少なくとも、ものすごく劣悪な者であり、不敬虔なふるまいをするような人物であればだれにも、そのことは成り立っていない。また、成り立っていると思われることさえ、ないのである。また、劣悪な者についても、ほぼ同じことが言える。なぜなら、この者たちは自分自身と「仲違い」を起こしていて、或るものを欲求しつつもそれとは別のものを願うからである。たとえば、抑制のない人はそうするのである。なぜなら抑制のない人は、自分に善いと思われるものではなく、その代わりに有害であるが快いものを選んでしまうからである。一部の別の人々はまた、臆病と怠惰ゆえに、自分に最善と考えられることをおこなうことを、放棄してしまうのである。
 この人々によって、多くの空恐ろしいことがこれまでにおこなわれてきた。かれらは不良性ゆえに憎まれている。そしてこの人々は、生きることから逃げようとし、自分を破壊しようとする。また、不良な人々はともに過ごしてくれる人間を求めて、自分自身を避けている。なぜならかれらは、自分自身一人きりになってしまえば、多くの不愉快なことを想い起こし、またほかのそんないやなことが起こってくる予感を抱くが、他人とともにいるあいだは、そうしたことを忘れることができるからである。そして、かれらは愛されるべきものを何ひとつもたないので、自分自身に対しても、友人らしい親しい愛というものを、味わうことができない。それゆえ、この人々は、自分自身とともに喜ぶこともなければ、自分自身とともに苦しむこともないのである。というのも、かれらの魂は内乱のような状況になっていて、その一部分は不良性のゆえに、或る行為が抑制されるとそのことに苦しむのだが、別の一部分はそのことを喜ぶからである。つまり、一部分はこちらへ、もう片方の一部分はあちらへと、あたかも魂を引き裂くかのようにして、引きずりまわすのである。そして、たとえ同時に苦しみ、かつ喜ぶということは不可能であるとしても、少し後になってから、かつて楽しんだがゆえに苦しむことになるということがあり、そのようなとき人は、こうしたものが自分にとって快くなければよかったのにとさえ思うのである。事実、劣悪な人は後悔の思いでいっぱいなのである。
 したがって、劣悪な人は愛される性質の何ものをも自らもっていないがゆえに、自分自身に対してさえ「友人になれる」ように関係していないように思える。」
(アリストテレス「愛の関係と、高潔な人の自分自身との関係」)
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