「だが、対話におけるイワンのアクセントがそもそも「すべてが許されている」という言葉にはならなかったのだとしたら弁証論の一切が覆ってしまう。じっさい、それに先行する「もし不死がないなら」にアクセントを置いて読めば、イワンの論理が抱え込んでいる悩みの声が微かに聴き取れる。彼の悩みは、不死(これもソグラーシエ〔同意〕だ)を信じたいが、信じようとすると信じ損ねずにはいられないところにあるのだ。調和(これもソグラーシエだ)に対する彼の強烈な異和と拒絶はこのラズノグラーシエ〔異和:同意を促してくる心に染み透る言葉に対して声を合わせ損ねること〕に発しているのである。
たとえば、かりにイワンに説得された私が同調してこんな風にくちばしったら彼はどんな顔をするか。人類の、とりわけこどもたちが甘受してきた、また今現在も甘受しているいわれなき苦しみを踏まえて成り立つ調和への入場券は私も返上する、私は不死だとか調和だとか高邁な理念なんかとは一緒にいたくない、人間の、こどもたちの苦しみと一緒にいたい、と。そう言った瞬間、イワンはきっと不快な、嘲笑うような顔をこちらに向けるだろう。肯定的にであろうと否定的にであろうと、それについて相手が何かを言えば、彼の言葉はさっと表情を変える。論理そのものよりもその悩みを読むとは、こちらの同意によって表情を変えるこういう言葉として彼の論理を読むことだ。……彼の心がそういう特質を持つ心だということを察していたゾシマ長老は、イワンの悩みのアクセントが「もし不死がないなら」という一点に置かれていることを最初から聴き取っていた。
…………
あのイワンがゾシマとのこの対話においては、終始一貫して、神妙とも奇妙ともつかない様子で、赤面したり不可解な笑みを浮かべたりしながら話していることを補記しておく。同席した人々も一瞬は鳴りをひそめたこの神妙さ、奇妙さ。それを理解することに比べれば、「すべてが許されている」の論理を理解することは難しいことではない。他方、右の対話でイワンの浮かべる微笑を想像することは限りなく難しい。だが、彼の悩みはそこにこそあらわれているのだ。イワンのディアレクティクは哲学や思想があれば綜合に導けるだろう。だが、彼の悩みはちがう。それは、作品を読み返すことによってかろうじてたどれる性質のものだ。
不死という問題に関してイワンにはっきりしているのは、これを否定的な方向に解決することはできないということだ。むろん、不死を論駁すること(ニェソグラーシエ〔不同意〕)は易しい。イワンにその易しいことができないはずはない。しかし、厄介なのは、それを理論的に全否定しても一向に解決しないものがどうしようもなく残るということなのだ。それは何か。不死を信じたいという不可解な、しかしやみがたい欲動である。だから、問題は肯定的な方向(ソグラーシエ)にしか解決され得ない。だが、ここでも留意すべきは、にもかかわらず、彼にはそれもできないということだ。信じたいと思わずにいることはできないが、信じることもできない。彼の悩みは、そこから生じるラズノグラーシエとしてあるのだ。ニェソグラーシエとしてあるのではない。イワンは不死を懐疑してみせたのではないのである。
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だが、注意しよう。ラズノグラーシエの位相が見落とされるには理由があるのだ。ゾシマが言うように、不死があるかないかというような問題を誰もが悩めるわけではない。たとえば、サルトルが、「もし不死がないなら」という条件節にイワンが隠した悩みのアクセントを聞き逃して「すべてが許されている」という命題から自由をめぐる独創的な解釈(人間は自由という刑に処されている)を導き出したのは(『実存主義とは何か』)、彼が不注意な読者だったからではなく、最初からこの悩みをイワンと共有していたなかったからだろう。じっさい、不死という途轍もなく法外な問題について誰が本気で悩みうるだろう。論駁するも何も、問題にすることすらできないというのが大方の現実ではないか。
……とはいえ、問いへの被爆を感知する鋭敏な計器を備えた人々もいる。いや、厳密には問いが降り注ぐのではない。何が降り注いでいるのか、光か、風か、精霊か、私は知らない。だが、それが検知されるときには必ず問いとして、ただ問いとしてのみ検出されるというのが正確なところなのだろう。「じゃあ言ってみろ、神はあるのかないのか」、「では、不死はあるのか、まぁ、どんなものでもいい、ちょっぴり、ほんのちょっぴりでもいいんだ」。イワン、アリョーシャ、ミーチャ(ドミートリィ)は当然としても、彼らの父フョードルもまた鋭敏な検知器を備えた人のひとりだったのである。イワンのように知性的でなくとも、アリョーシャのように宗教的でなくとも、またミーチャのように情熱的でなくとも、つまり、どれほど卑劣、貪欲、横暴、淫蕩であろうと、そうした性格には一切関係なく、神=自由=不死をめぐる問いに自分が刺しつらぬかれているのを感受せずにはいられないカラマーゾフ的な人々がいるのだ。
ところが、他方において厄介なことに、斥けることのできないこの宇宙線はまた、人間には答えることができない問いでもある。答えれば正解は、相容れない二枚の板に割れてしまう。この地上では、降り注ぐ問いを検知して神=自由=不死について肯定的に答えようとテーゼを立てるまさにそのことが、それを否定するアンチテーゼを同時に立ててしまうことにならざるをえないのだ。例の悪魔が「《否定する》役」を振られていた理由はそこにある。
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この問いに刺しつらぬかれ、理知はもちろん心情さえ、うちくだかれた彼らは答えようとして、ただ分裂し、悩み、うめき、そして誤るほかない。だが、信仰とは、そういうことなのではないか。少なくとも、答えを見出すことではないはずだ。むしろ、ただただ問われることなのだろう。外から来る解けない問い、解いてしまったらウソになるような問いに曝され続けること、それが己を刺しつらぬき、うちくだくのに耐え続けることなのだろう。不合理だから信じるのではない。信じるから不合理なのだ。より正確には、信じる/信じないというこちらの心の問題以前にすでにつねに信じているから不合理なのだ。その不合理を不合理のままに包摂することが問題になるのは、信じることの結果ではあっても理由にはなり得ない。二律背反を矛盾のまま包容することによって信仰に至るのではなく、信じているからそれを包容するのだろう。
私はここでも他人事として書いているつもりはない。我々がドストエフスキーを読む難しさは右の困難に極まる。さしあたりこの作家の例の悪魔的喜劇性をとらえる難しさもこの困難に由来すると痛感している。」
(山城むつみ『ドストエフスキー』)