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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: 暴力の不可避性&暴力批判

「……しかし、繰り返すが、問題は、論理が「最悪のもの」に扉を開いているかどうか、ではない。そこに通じない論理をいかにして作り上げるか、ではないのだ。我々はこの世界に存在するや否や、暴力であり続けるほかないのだという現実をどこまで洞察しているか、なのである。
 自己は自己自身を暴力にせずにいることができない。この現実を正視するデリダはその暴力を精査してそこに襞を見出した。自己暴力にするとは、同時にそのような自己暴力を行使することでもあるのだ。同じ一つの暴力がそれ自身と異なりそれ自身から遅延する他者を自己自身のうちに分岐させ、その他者が元の暴力的な自己に暴力を振るうのである(『アーカイヴの病』邦訳一三一頁)。神がアブラハムにまず、イサクを「燔祭として献ぐべし」と命じた後に「汝の手を童子に按くるなかれ〔手を下すな〕」と命じたように。アブラハムは自らを全身、暴力にしたまさにその瞬間に、その暴力から遅れて派生した他者がその暴力そのものに暴力を振るうにまかせることによって、イサクを犠牲にする暴力を制止した。差延とは「彼を燔祭として献ぐべし」という命令から「汝の手を童子に按くるなかれ」という命令がズレ出て来るその差異であり遅延である。この世界では、この暴力だけが暴力を制止する。アブラハムの場合、前者の暴力は後者の暴力を伴った。他者の顔がまず憤激と暴力を引き起こすからこそその同じ顔が暴力を制止し得るのだ。前者なくして後者はない。しかし、前者があれば、必ず後者があるわけではない。前者の暴力はイサクを殺害してしまうかもしれない。デリダは、日々、自分が自らを暴力にしているその日常的暴力が、たとえば中東におけるイサクの殺害と無関係にではなく下されていると感じていた。その暴力と無縁なところに自分がいるとは、またそういう場所がこの世界のどこかにありうるとも考えなかった。自分自身が下す前者の暴力は後者の暴力を惹起せず、イスラエルの、あるいは「最終解決」の暴力と同じ犠牲を引き起こし得る。そのような憤激(つまずき)の可能性の中で自らを暴力にすることをやめられない以上、後者の暴力が生起することを祈りつつも、自らをとらえる前者の暴力には身震いし、おののかずにはいられない。デリダが問題にしていたのは、「最悪のもの」との間にありうるこの共謀を自覚して、すなわち憤激の可能性の中で「決定」が下されているかどうか、だ。さらにいえば、その「決定」が、たんに主体的なものではなく、「最悪の暴力」を喚起する「顔」との関係において、さながら「あなたは殺してはならない」という命令のように、向こう側からやって来た他律的なものであるかどうか、なのだ。」
(山城むつみ「ベンヤミン再読──運命的暴力と脱措定」)
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