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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<身体がこの世から消えないうちに

「千三百ページの小説としては、『ふたつの旗』のメインプロットは極めて単純なものであり、レジスとミシェルのアンヌ=マリーをめぐる三角関係以外にはほとんど物語らしいものが見られないばかりでなく、登場人物も極めて少ししか登場しない。小説の大部分は三人の若者の恋と信仰をめぐる悩みや歓喜といった心理の分析と、少しずつ離れていったりこわばったり、あるいはかたくなになったり解き放たれたりする心の動きの描写によって占められており、その間をぬってというよりその運動の反映として、ワーグナーからストラヴィンスキーといった音楽家や画家、文学者についての会話や、リヨンやローヌ地方、ボージョレ、アルプス、ローマといった場所の風光があらわれるのである。いわば『ふたつの旗』は同時代には稀有な恋愛小説であり、失われた情念と欲望をよびさます恋愛心理小説なのである。様々な文学者がそのために『ふたつの旗』を、たとえばその恋をめぐる戦いの苛烈さから『危険な関係』や『赤と黒』にたとえたり、その恋愛心理分析の迫真と圧巻によって『新エロイーズ』になぞらえている。確かに『ふたつの旗』は、他の現代文学に見出せないような豊饒な恋愛の実在を感じさせる。そこに、あえて宗教と恋愛といった古めかしいプロブレマティークをおいた計算や、最終部まで恋人たちが直接的な関係をもたずに、精神的なふれあいのみによってその官能を喚起するという筋立てのうまさといった構成や技法の卓越だけには還元されないような、一種の画期的な認識、つまりは恋愛をめぐる精神の領域と肉体の領域が交錯し喚起しあうような、真の生き生きとした魂のふれあい、エロスの認識がおこなわれている。
 …………
『ふたつの旗』に思想的なテーマを求めるとすれば、それもまた極めて小説的な真実の開示として考えざるをえない。この恋愛小説のテーマは原題の「悪魔でなく、神でなく」に示されているように、神の側に立って生き、純粋な精神の領域にたてこもるのでもなく、また悪魔となってことさらに肉欲に耽溺し、背徳を謳歌するのでもなく、結末部で自分を悪魔扱いするレジスに対してミシェルが語るように、ただあたりまえに人生を受け入れ、その果実を楽しみ、精神と肉体の双方、つまりはエロスを受け入れることなのである。宗教はもちろん恋愛に対する障害だが、しかしこの小説は一面では果敢な信仰の擁護の書物ともなっている。というのもこの恋愛小説で語られる情念や絆、そして欲望の息づまるような濃厚さは、なによりも信仰のもたらす精神性と規範によるものであり、宗教の介在によって、肉体と精神がたがいに相乗することで初めてこの小説では、真の絆、魂の結びつきを求める恋愛が可能となっているからである。『ふたつの旗』は信仰をなみする書物というよりも、それが直接に神への帰依に結びつかないとしても、即物的な人間関係を棄却して精神の領域を復活させることを主張しているかにも読めるからである。
 それではいったい何が、この『ふたつの旗』の極めて反時代的な正統性を可能にしているのだろうか。この点において、読者は『ふたつの旗』の『残骸』との同一性を認めなければならなくなるだろう。つまりこの政治について一行も書かれておらず、罵りも攻撃も血の雨も暴動の雄叫びも聞かれない小説は、まごうことなき現代の文学と社会の否定行為であり、様々なイデオロギーや先入観、政治状況や文学様式、ジャーナリズムや商業主義に支配されている現代文学に対してルバテが投げつけた、薫りたかき恋愛小説という爆弾なのであり、ヒューマニズムの描きだす政治化され均質化され疲弊した「人間」に対しての、いわば「魂」の復権要求であり精神的な領域の復活の呼びかけなのである。『ふたつの旗』の世界は『残骸』の語り手が破裂させた大いなる怒りの対象である、様々な認識することのできない拘束や、「平等」「自由」といった人間の本質への欺瞞や腐敗によって侵された、巨大産業に飼い殺しにされて生きているのかどうかも分からない現代人の世界に対置された、葛藤する精神と理想を希求する強い意志をもち、肉体と思いが交錯するエロスの領域を支配する「魂」の世界なのである。『ふたつの旗』における恋愛劇の実在感の強さは、このエロスの領域にあくまで忠実であることによっている。そのような点から見ても、『ふたつの旗』は信仰もしくはそれに類する精神的な活動の奇妙な擁護のように受けとれないこともない。というのも、信仰があって初めて、肉体とは別の領域が成立し、精神と肉体の交錯、葛藤、親和としてのエロスがうまれ、近代社会とは異なった「魂」の領域が開かれるからである。」
(福田和也『奇妙な廃墟』)
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