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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<おれは真剣にあなたの話を聞いていますよ

「「まあミスタ・ブルーム、ご機嫌いかが?」
「やあ、そちらこそいかがですか? ミセス・ブリーン」
「不平ばかりこぼしてもしかたないわ。モリーは近ごろお元気? もうずいぶんお目にかかってないけど」
「ぴんぴんしてますよ」と俺は陽気に言った。「ミリーはマリンガのほうで就職しました」
「お家を出たのね! 頼もしいじゃないの」
「写真屋見習いってところですね。忙しいらしいです。お宅のお子さん方は?」
「一人前なのは食欲だけね」とミセス・ブリーンは言った。
 彼女は子供が何人いたっけ。まさか以前から増えたってことはあるまい。
「喪服を着てらっしゃるのね? お宅に何か?……」
「いや──」と俺は言った。「葬式へ行ってきたところなんです」
 今日はどこへ行ってもこの話題を避けられないんだろう。誰が死んだいつ死んだどんな病気で? 鸚鵡みたいにくり返し尋ねられる。
「まあ! それはそれは──」とミセス・ブリーンは言った。「近いご親戚の方じゃないんですよね?」
 同情を引いておこう。
「ディグナム──」と俺は言った。「ぼくの旧友です。とつぜん亡くなりましてね、かわいそうに。たぶん心臓病でしょう。今朝葬式でした」
  〈明日はあなたのお葬式
   ライ麦畑をやってくる
   ディドルディドル・ダムダム
   ディドルディドル……〉
「古いお友達が亡くなると悲しいわ」と彼女の女らしい目が悲しそうに言った。
 この話はもういい。さりげなく尋ねる。亭主について。
「お宅のご主人はいかがです?」
 ミセス・ブリーンは大きな二つの目を上にあげた。目だけは昔と変わらないな。
「いえ、よしましょうその話は!」と彼女は言った。「手がつけられないのよ、あの人。今そこの店に法律書を持ちこんで名誉毀損について調べてるの。気が気じゃないわよほんと。……ちょっと待って、お見せしたいものがあるの」
 熱い子牛肉のスープの湯気と焼きたてジャム入りプディングの蒸気が、ハリソンの店から漂ってきた。その濃厚な食事の香りが俺の飢えを刺した。美味いペストリーを作るのに必要なもの、バターと極上の小麦とデメララ粗糖。不味いペストリーは熱いお茶といっしょに流し込むにかぎる。だがこれは彼女の香りなのかな。裸足の浮浪児が一人、格子枠の上にのぼって匂いを吸い込んでやがる。あれで飢えの辛さを紛らわせるつもりか。快いのと苦しいのがないまぜになるだろうに。一ペニーの夕食、慈善団体の施し。ナイフとフォークが鎖でテーブルにとりつけてあるんだよな。
 彼女はハンドバッグを開けようとしている。擦り切れた革。うつむいた彼女の帽子のピン。ああいうのには用心用心、電車のなかでうっかり男の目を突き刺したりしかねないんだから。中身をがさごそ。お金か? どうぞこれをってか。彼女の家ではたった六ペンス無くすだけでも大変だろう。驚天動地の亭主が怒鳴りちらす。月曜日におれがやった十シリングはどうしたんだおまえの弟の家族まで養ってるのか? 汚れたハンカチーフ。薬瓶。錠剤が落ちた。何のつもりだこの女。
「きっといま新月なのね、新月のときはいつも主人がおかしくなるの。昨夜主人がどんなことをしたとお思いになる?」
 彼女の手はかきまわすのをやめた。じっと俺を見つめている彼女の目は不安そうで、しかし微笑していた。
「何でしょうね?」
 さあ話すがいい。まっすぐ彼女の目を見つめる。おれは真剣にあなたの話を聞いていますよ。おれを信頼しなさい。
「夜なかにあたしを起すのよ」と彼女は言った。「夢を見るんですって、こわい夢を」
 何だ。それだけか。
「スペードのエースが階段を昇って行く夢ですって!」
「なんと。スペードのエース」
 彼女はハンドバッグから折りたたんだ葉書を出した。
「読んでみて。今朝、彼のところにきたの」と彼女は言った。
「なんです?」と俺は受け取りながら尋ねた。U・P?
「U・p。アップ〔おまえはもうおわり〕だって。誰かが彼を怒らせようとしてるのよ。誰なのかまったくわからないけど、なんて悪いやつ!」
「悪いやつですね」と俺は言った。
 彼女は葉書を取り戻して、溜息をついた。
「それであの人、これからミスタ・メントンの法律事務所へ行くつもりなの。訴えて一万ポンドの損害賠償を請求するんですって」
 彼女は葉書をまた乱雑なハンドバッグのなかに入れて、口金を掛けた。
 彼女が着ているのは二年前のと同じ青のサージの服だ。昔はきれいな服だったが毛羽立った生地が色褪せている。それにこの野暮な婦人帽は。耳の上にほつれ毛が出ていて、旧式の葡萄の飾りを三粒つけてなんとか見られるようにしているが、無惨な身繕い。これでも彼女昔は服装の趣味がよかったのにな。顔、口もとには皺もよってしまっている。モリーよりたった一つか二つ上なだけなのに。
 いやはや、いま行き違った女性が彼女を視野に入れたときの目つきは! 見下すみたいな眼差しだった。容赦ない。フェアセックスどころかアンフェアセックスじゃあないか、女っていうのは。
 俺はそのまま彼女を眺めつつも非難の色を顔に出さないようにしていた。鼻を衝く子牛肉、オックステール、チキンカレーのスープ。おれも飢えている。熟した果物をたっぷり詰め込んだルーバーブのタルト。彼女の服のマチのところにはペストリーの欠片がくっついて、彼女の頬には白い粉がくっついている、砂糖か。かつてのジョージ・ポーエル。ドルフィンズ・バーンのルーク・ドイルの家でジェスチャーをやって遊んだおれたち。U・p、アップ。
 話題を変えるか。
「近ごろミセス・ボーフォイにお会いですか?」と俺は尋ねた。
「マイナ・ピュアフォイのこと?」と彼女は言った。
 俺はフィリップ・ポーフォイのことを考えていたらしい。演劇鑑賞家クラブのおれたち。マッチャムがたびたび思い出すあの殺し文句、最後の幕。鎖を引っ張ったかな?
「そうです」
「通りがけにちょっと寄って訊いてみたわ。無事にすんだかどうかと思って。あの方ホリス通りの産婦人科病院にはいっているのよ。ホーン先生が入院させたの。三日前からずっと苦しんでいたんですって」
「ほう」と俺は言った。「それはいけない」
「そうなの」と彼女は言った。「それに家には子供がいっぱいるのに。とても難産だったって看護婦さんが言ってました」
「ほう」」
(ジェイムズ・ジョイス「8──ライストスリュゴネス族」)
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