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Lubricate us with mucus. ──2nd season 人間将棋編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<秘儀

「これほど時間をかけて一つの目的を追求したことは、これまでのアランには一度もなかった。その行為が紙に定着されるとすぐに、その紙片から一つの効力が立ち現われた。しばらく、彼の生命には何かが生じていたのである。彼はそれを中心としてすべてをたて直そうとした。それにしがみついてたて直すこと、しがみつくこと。
 …………
 それから、魅せられたように再び机にもどった。彼は、人間生活の拡散した力のすべてを一語一語休みなく寄せ集める文字の力強さをかいま見たのである。彼は錠のついた折鞄をとり、いつも身につけている小さな鍵でそれをあけた。なかには、字を書き込んだ紙が数枚入っていた。その一枚には、「切符のない旅行者」と記されていた。それは、考えがまとまらないまま何枚かに書き記した告白録の下書だったが、あちこち擦り切れてぼろぼろだった。一つの句、一区切りの文、一つの単語が記されているにすぎない。彼は頁をめくった。書く行為を前にして心を凍てつかせるあの恐怖と無力感をいつもほどには感じなかった。彼が今まで知らずに過して来たことは、たとえ彼の魂がひ弱でなかったにしても、胸中を吐露するためには、魂を強制し、苦しい努力によってその魂を締めつけねばならなかったということである。
 彼は何頁か読み返したが、それらの頁は語り始めてはためらい、途方に暮れていた。彼はどこでそのように腰くだけになるのかに気がついた。と、この貧弱な文章につけ加えられ、それと一体になって生きるべき僅かなものが、びくっと体を動かした。
 彼はペンをとり、一瞬ためらってから、思い切って紙に触れ、ペンを動かした。感動的な瞬間だった。アランは再び生に近づいていた。彼は、昔まじわった幾つかの文学グループから文学を軽蔑することを教えられていた。そうした態度のなかに、己れの軽薄さと怠惰にふさわしい僅かばかりのつまらぬ反抗を彼は見出していたのだ。その上、死者も同然の彼には、もっともらしい軽蔑をこめて彼が文学と呼ぶもの、そして、彼に文学を軽蔑することを教えた連中が専念している目的のない行為に他ならないもの、それ以外のものが存在するとは考えられなかった。彼には、一人の人間が自己の特徴と自己の存在の指針とを定着させるために芸術を必要とする一段と深い必然的な探究のことなど、まったく考えも及ばなかった。ところが今、彼は、望むともなく知らず知らずのうちに、本能のひらめきによって、先まで行けばいつも遠ざかっていた厳かな神秘に追いつくことのできる道に足を踏み入れたのである。その神秘の思いがけない恩恵を感じた以上、世界を整えて彼に生きることを可能にする文字の働きをすぐに理解することができたはずである。生れてはじめて、彼は自己の感情に見せかけの秩序を与えたが、じきに一息つくと、その単純な、しかし、明確な輪郭がないために縺れ絡み合っている感情の下で息苦しい思いをするのを止めてしまった。気落ちしてすべてを放棄し、注意して眺めもしないで、世界はくだらない、何もたしかな手ごたえはないなどと断言したのは間違っていたと、おぼろげながらも彼は気がつこうとしなかったのだろうか。
 だが、彼はすぐに疲れてしまった。二、三頁書き上げたが、かつてこれほど筆を進めたことはなかった。彼の存在理由を維持し得たかも知れぬ僅かな欲望の荷物を運びながら、長い間紙の砂漠の中央に見捨てられていたまばらな言葉の隊商が再び歩き始めたが、その途端に、早くも彼はその隊商を立ち止らせ、再び白い紙のなかに横たわらせてしまったのである。」
(ドリュ・ラ・ロシェル『ゆらめく炎』)
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