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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<〈現在〉への脱出口2

「……人間はどのようにして邪悪なものになるだろうか。邪悪さを可能にする条件は、限定された社会的状態と一体なのである。邪悪なもの自身や愚か者がそれについて、ときどき何を言おうと、無私の邪悪さなど存在しない。あらゆる邪悪さは、利益であり、何かの償いである。複雑な社会的利害に応じて、抑圧的関係のなかに刻み込まれていないような人間的邪悪さなど存在しない。ルソーは、抑圧的な関係と、それが前提とする社会的構造を分析しえた著者の一人である。この極限の論理をもつ原則を想起させ、また革新するにはエンゲルスをまたなければならない。要するに暴力あるいは抑圧は最初の事実を形成するものではなく、ある文明の状態、社会的状況、経済的限定を前提とするのである。ロビンソンがフライデイを服従させるのは、自然的な傾向によるのではなく、また腕力によるのでさえもない。わずかな資本と生産手段によって、彼は水源を保ち、フライデイを社会的な任務にしたがわせる。船が座礁してもロビンソンは、社会的任務の観念を失いはしなかったのである。〔邪悪であることに利点があるような状況は、いつも抑圧的な関係をともない、そこで人間は、隷属し、あるいは命令するために、主人あるいは奴隷として人間と関係する。〕
 社会は、邪悪である方が好都合であるような状況のなかにたえず私たちをおく。虚栄心によって、私たちは、自分たちが生まれつき邪悪であると信じようとする。しかし真実はもっと手におえない。私たちは、それと知らずに、それに気づきさえしないうちに、邪悪になる。……
 …………
 邪悪であることに利点があるような諸状況は、どのようにして避けられるだろうか。……『新エロイーズ』のなかでルソーは、様々な状況の危険を遠ざけるのに適した一つの深遠な方法を完成している。一つの状況は、単にそれ自体でわれわれを誘うのではなく、それにおいて具体化される一つの過去の重み全体で誘うのである。これは現在の状況において過去を探究することであり、過去を反復することこそが、われわれの最も暴力的な情熱や誘惑をかきたてる。私たちが愛するのは、いつも過去においてであり、情熱は、まず記憶に固有の病いなのである。サン=プリューを癒し、美徳へと立ち返らせるのに、ド・ヴォルマール氏は、一つの方法を用いて、過去の栄光を追い払う。彼はジュリーとサン=プリューが、彼らの最初の頃の愛を経験したあの同じ木立の中で抱き合うようにせまる。「ジュリー、もうこの隠れ家を恐れなくてもいいのです。それは冒涜されてしまったのです」。彼は、美徳をサン=プリューの現在の利益にしたいのである。「彼が愛しているのはヴォルマールのジュリーではなく、エタンジュのジュリーなのです。彼は、彼が愛する人をわがものにしていることが理由で私を嫌悪しているのでは全然ありません。そうではなく、彼が愛した女性を誘拐したものとして嫌悪しているのです……彼は過去の時間において彼女を愛している。これこそ真に謎にみちた言葉です。彼から記憶を奪いさってごらんなさい。彼はもはや愛さないでしょう」。私たちが時間の消失を学ぶのは、過去に夢中になるかわりに、ついに未来において欲望することを知るようになるのは、物たちとの関係において、場所との、たとえば木立との関係においてである。これはまさにルソーが「賢者の唯物論」と呼んだものであり、現在によって過去を覆うことである。」
(ジル・ドゥルーズ「カフカ、セリーヌ、ポンジュの先駆者、ジャン=ジャック・ルソー」)
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