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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<苦痛による純化

「ああ、僕は初めて退屈といふものを知つた。
 君は、人生は退屈だと今更知つたのかといふか。然し僕が退屈を知るのにどれ程の涙を流したか君は知るまい。大体人間が「知る」といふ事は不可思議なものだ。「人生は退屈だ」といふ事を知るといふのは「人生が退屈だ」といふ言葉が燦然たるニュアンスを持つてゐると感ずる事だ。俗人が退屈だといふとき君は、彼等に、金がないと正直に言ひたまへといふだらう。よろしい。退屈とは、する事がないといふ事ぢや勿論ない。又人生が何んの変哲もなく流れて行くといふ事でもない。それはむき出しになつた僕の脳髄の慄へに直面する事なのだ。ああなんと僕の心が何んの対象もなく、冷く慄へてゐる事か。これこそ生命その儘の姿ではないか!
 僕はその時女の眼が耳より大きくなつたと思つた。
 …………
 僕は如何な女を見てもその女が一番ぼんやりしてゐる処を見ても、何か必ずその女の個性といふものを発見する。何を考へてゐるかがすぐわかる。然し彼女がぼんやりしてゐる処を見る時、私は絶対に何物も捉へる事が出来なかつた。そこには何か飄々として而も透徹したものがあつた。私はそれが彼女の独創性なのだと思つた。
 …………
 近代の小説といふものが恐ろしく人間を散文的にした。(尤も僕は詩といふものが散文的ではないと思はぬ。立派な詩といふものが散文が解りすぎた処にいつでも生れてゐる)だから、もつと誤解の少い言葉でいふなら、いよいよ心理的になつたといふ事である。芸術家の純粋な喜びだとか、全く世間を離れたある感情だとか、思索だとかを皆心理の世界にひき下す。「そんな事を言つたつて、よく考へてみれば、斯く斯く斯ういふ心理があるのさ、要するに君の信じてゐる様な高貴な魂なんていふものはあり様がない」と彼等はいふのだ。つまり人間が生意気になつたのだ。人を愛する、愛するといふ事を何も偉大な事だといふ必要はないのだ。然し愛するとは利己心の変形だなどと猶更言ふ必要はないのである。愛する事は愛する事だ。それだけの真実ではないのか! 僕は、かういふ生意気が一番厭なのだ。
 …………
 苦痛の頂点にある時、苦痛を恐ろしく明瞭に意識する瞬間がある。さういふ時には苦痛は必ず一つの明瞭な形をとつて目の前に現れる。例えば電車の中のつり革の白いカーブだとか、膝掛の角だとかが苦痛そのものだと信ずる瞬間があるのだ。この時この瞬間は永遠となる。
 苦痛が人間を浄化するといふのはかういふ瞬間を苦痛が人間に与へるからだ。この時人間は自分の苦痛に敬礼する。ああこの敬礼こそ人間の歓喜である。
 …………
 あるが儘に書く、それは大した事に相違ない。だが誰があるが儘の人生を描き得よう? 実生活とは如何なる詩人もうつす事の出来ぬ狂気染みたものだ。
 …………
 人生は決して狂気染みてはゐない。狂気染みてゐるのは人間の脳髄だと言ふかもしれない。恐らくそれは本当だ。人間は山の頂上から飛び下りたらら決して天に上りはしないからね。処が人間の思索と行動との間には常に神様だけが知つてゐる暗が挟まれてゐる。この早い話が言葉でもいい、俺は如何にしてあんな事をあの時言つてしまつたんだらう。と後で考へない人間があるだらうか? 人間の感受性が強くなればなる程、馬鹿な事を喋るものだ。何かを考へる扨て考へた事を行為に移さうとする、吾々は幸にも少しも気が附かない時が多いのだがこの時吾々は必ず何物かを眼をつぶつて躍びこすのだ。もしこの深淵が人間の宿命ならこの宿命を覗いた男に而も覗いて生活をとめる事を許されてゐない男に人生が如何に狂気染みてゐようと同じ事ではないか?」
(小林秀雄「断片」)
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