忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<足掻きをやめるための足掻き

「情念は、衝動とどこが違うのであろうか。情念にあっては、たとえば怒りにしても恐怖にしても、心の葛藤によって激化されるものである。私に納得のゆく恐怖は、やがて去ってゆく恐怖である。だが、私に納得がゆかず原因を求めて目が離せなくなってゆく恐怖、これが本物の恐怖である。怒りのほとんどは、怒っているということに対する怒りである。恐怖のほとんどは、恐怖しているということに対する恐怖か、恐怖しているということに対する屈辱感である。不意打ちにみちた情念のドラマは、ここに始まる。怒りや恐怖や恋の苦悩のおおむねは、自分自身との戦いから、自分自身の容認しなかった事柄への激怒から、生まれる。臆病さにおいて、このドラマはむき出しにされる。自分のしたいことができず言いたいことが言えないでいるということを、自分自身で気づいているところから生まれるのが、臆病さの苦しみなのだから。そこから苦い屈辱がうまれ、それはやがて怒りとなる。そしてそのために、気づかっていた以上のへまなことをしでかすに至る。こうした心の動揺と自分自身への恐れとが、あらゆる情念にはつきものである。
 こう考えてくれば、最も高邁な人間こそ最も激しい情念をもつという通説は、おおむね納得できるところとなる。何にでもすぐ同意する人間は、恋には無縁なようである。逆に、みずからの自由を守ってゆるがぬ人間には、ささいな恋の傷手も激しい屈辱となる。恋から逃れようとするものこそ、真に恋する人である。しかし、詩人がうたっているように、彼はキューピットの矢を胸に突きさしたまま逃げるのである。ある人のことを考えまいと努める心は、憐れむに値する。なぜなら、そう努めれば努めるほど、その人のことを考えてしまうのだから。それは、抱いてはならぬと自分に禁じた思いを、逆に自分に刻みこんでしまうことなのだから。どんな人間も、事ここに至ってはぶざまなものであって、われとわが身を辱しめ、われとわが身にいらだつばかりとなる。不機嫌こそ恋の証拠というあの滑稽な恋し方は、ここから生じる。思いにまかせぬ恋の心のなかにつねにひそんでいるこの不機嫌という名の憎しみは、復讐となって爆発する。嫉妬に狂う男が復讐するのは、だまされていたためであるよりは、自分の恋の心が思いにまかせなかったためなのである。
 要するに、人間は、自分で自分を処してゆきたいのである。意志的でありたいのである。恋の心がつねに情欲をこえようとするのは、そのためである。だからこそ、約束という観念、さらには、誓いによって自分を拘束しようという観念が生じる。みずからの意志にもとづくこの拘束が苦痛であればあるほど、他の拘束は感じられなくなる。勇気によって恐怖から解放されるのと同じなのである。……試練をみずから選びとって忠実に耐えようとする覚悟、および心の自由、この二つこそが、恋を狂おしく燃えあがらせる。」
(アラン「情念の不意打ち」)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R