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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<愛だけが残る

「「そりゃそうさ。悪い、おかしなところがあっても、それを批判するまえに、まず、積極的にみとめるんだよ。無私というのは、相手のあるがままの姿を、すなおにうけとめて、全部自分をなくして、相手の対象だけ、はっきりすることからはじめることで、それがほんとうの批評だ、っていうんだよ。はじめっから非難しようとかかったり、相手をやっつけようと思って、自己主張をすることをつつしめっていうことだ。“自己主張があるからには、非難もやむをえない、非難は否定的で、非生産的かもしれないが、主張は生産的だ”なんていう人がいる。しかし、批評精神を、純粋な形で考えるならば、自己主張はもちろんのこと、どんな立場からの主張も極度に抑制するのが、批評精神なんだ。」
「ある立場から批評するのは、かたよってしまう。」
「批評っていうと、冷静になって、理性的な判断がだいじだとばかり考えて、愛情とか感動なんかはいらないように思っている人は、ぜんぜん、批評については知らない人だね。」
「でも、かたよった批評をしないために、冷静になって、理性的にならなきゃならないんじゃないかしら。」
「いまの人はみんなそう考える。そういう世の中だからね。なにか総合しようとするより、分析することが発達し、人に同情するより、憎悪のほうが先になる世の中だからね。文学批評の基本的な生命であるものがわからなくなっちまったんだ。もちろん、判断し、分析することは必要だよ。だけどそれだけじゃいけない。」
「というと……。」
「正宗白鳥や、谷崎潤一郎は、りっぱな、魅力のある批評作品がある。それを読むと、批評している作品を、どんなに親身になって読んでるかわからない。その作品を心から愛してるよ。子どものようにはりきって、純粋な目で、その作品をみている。その観点、態度がいいんだ。」
「そこなのね。まず無私にならなきゃいけないっていうのは。批評は、そのあとで出てくるものなのね。……まず愛せよ、そのあとで自分の心のままにおこなえ。キリスト教ではそう教えているけど、にいさんのいう批評精神とおんなじだわね。自己主張も、好きなことも、まず相手を愛してからやれば、ちがってくるわけね。」
「そうだよ。それがほんとうだ。まずはじめに愛せよ、信ぜよ、だね。批評してから信じたり愛したりするんじゃなくてね。これがいちばんだいじなんだ。批評家になるものは、まず、すなおな気持ちで、いちばん先に信じる人でなければだめだ。人をけなしている文にいい文章が書けてるのは、ひとつもない。」
「なにか相手の欠点や、わるいところを見いださないと、自分がえらくないように思われる。ほめてばかりいると、自分に主体性がないように思われる──そんなことを気にして、いろいろいうってことはないかしら。」
「それは虚栄心じゃないか。ほんとうの批評精神じゃない。」
「…………」
「批評は学問でもなく、研究でもない。批評は生活的教養だと、おれはいってるだろう。信じるとか、愛するとかいう心には、虚栄心や自己主張は、ぜんぜんないものだ。自己を捨ててみれば、しぜんと、批判的態度というものがあらわれるんだ。批評の極意は、人の身になって見る、っていうことだ。独断的態度も、懐疑的態度もまったく捨てて、相手の立場に立って見る、ということだ。」
「そうでなければ、相手のことが、ほんとうにわからないのね。」
「正しく評価するためには、その方法しかない。さっきもいったように、自己主張とか、文学的立場とか、社会的立場とかいう、そういう立場を捨てることだよ。捨てきったときに、はじめて、ほんとうものもがつかめるんだ。というより、ほんとうのものに、とらえられる、っていったほうがいいかな。」」
(高見沢潤子『兄小林秀雄との対話』)
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