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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<汚顔ヘヴン

「かくとも知らぬ主人ははなはだ熱心なる容子をもって一張来(いっちょうらい)の鏡を見つめている。元来鏡というものは気味の悪いものである。深夜蝋燭を立てて、広い部屋のなかで一人鏡を覗き込むにはよほどの勇気がいるそうだ。吾輩などは始めて当家の令嬢から鏡を顔の前へ押し付けられた時に、はっと仰天して屋敷のまわりを三度馳け回ったくらいである。いかに白昼といえども、主人のようにかく一生懸命に見つめている以上は自分で自分の顔が怖くなるに相違ない。ただ見てさえあまり気味のいい顔じゃない。ややあって主人は「なるほどきたない顔だ」と独り言を云った。自己の醜を自白するのはなかなか見上げたものだ。様子から云うとたしかに気違の所作だが言うことは真理である。これがもう一歩進むと、己れの醜悪な事が怖くなる。人間は吾身が怖ろしい悪党であると云う事実を徹骨徹髄に感じた者でないと苦労人とは云えない。苦労人でないととうてい解脱は出来ない。主人もここまで来たらついでに「おお怖い」とでも云いそうなものであるがなかなか云わない。「なるほどきたない顔だ」と云ったあとで、何を考え出したか、ぷうっと頬っぺたを膨らました。そうしてふくれた頬っぺたを平手で二三度叩いて見る。何のまじないだか分らない。……かくのごとくあらん限りの空気をもって頬っぺたをふくらませたる彼は前申す通り手のひらで頬ぺたを叩きながら「このくらい皮膚が緊張するとあばたも眼につかん」とまた独り語をいった。
 こんどは顔を横に向けて半面に光線を受けた所を鏡にうつして見る。「こうして見ると大変目立つ。やっぱりまともに日の向いてる方が平に見える。奇体な物だなあ」と大分感心した様子であった。それから右の手をうんと伸して、出来るだけ鏡を遠距離に持って行って静かに熟視している。「このくらい離れるとそんなでもない。やはり近過ぎるといかん。──顔ばかりじゃない何でもそんなものだ」と悟ったようなことを云う。次に鏡を急に横にした。そうして鼻の根を中心にして眼や額や眉を一度にこの中心に向ってくしゃくしゃとあつめた。見るからに不愉快な容貌が出来上ったと思ったら「いやこれは駄目だ」と当人も気がついたと見えて早々やめてしまった。「なぜこんなに毒々しい顔だろう」と少々不審の体で鏡を眼を去る三寸ばかりの所へ引き寄せる。」
(夏目漱石『吾輩は猫である』)
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