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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<ビジネスへの忠義立て

「食肉輸入業者の会合があると女房に嘘をついてテニスボーイは新宿副都心の超高層ホテルに部屋を取った。女房はまったく疑っていない。特に最近は以前よりうまくいっている。テニスボーイが熱心に仕事をするようになったからだ。テニスボーイは毎日必ず店に出向き、帳簿に目を通し、従業員に訓示し、時には仕入れにも同行した。またヤマザキが以前から提案していた安価な食肉ルート捜しにも着手した。南米の日系人畜産家と組んで、食肉の関税引き下げを見越し、商社を通さない新ルートを開発する、というものだ。テニスボーイは法律と語学を勉強し始めた。新しい弁護士とも契約した。女房はもちろん、ヤマザキも郡城も父親もその変わりように驚いた。三十になってやっとあいつもやる気が出てきたな、誰もがそう思った。
 だが、実はそうではなかった。テニスボーイにとって食肉などどうでもよかったのである。離れていると、どうしても吉野愛子のことを考えてしまう。吉野愛子の声が耳について消えない。それはもう自分自身が情ないほどだった。一体お前はどうしたんだ? 女のことばかり考えて………何百回となくそう自問した。何をやっても吉野愛子の声は消えなかった。ヨシヒコと散歩していても、郡城と飲んでいても、450SLCを走らせていても、そしてテニスをしていても、である。吉野愛子が電話に出なかった夜、誰か他の男と抱き合っているのではないかと考えて家に戻っても眠れなくなったこともあった。ベッドから這い出してウイスキーを飲んだが、酔えなかった。喉がカサカサして、動悸は激しく、テニスボーイは450SLCのキーを掴むとガレージに走った。音がしないようにガレージのシャッターを開け、シートに坐って、エンジンをかけようとした時、フロントガラスの疲れ果てた自分の顔に気付いた。俺は疲れている、ヨシヒコや女房や父親や店を捨てて吉野愛子の暗い六畳一間の部屋へと走る精神力も体力もない、そう思った。これが三十歳になった男の限界だ、今からどんなに練習したってゲルライティスみたいなボレーは打てっこない、それと同じだ、筋肉だけではない、すべてにおいて衰えているのだ。テニスボーイは恐怖に囚われた。老い、の恐怖である。その翌日からテニスボーイは仕事に熱中するようになった。不思議なことに、仕事は吉野愛子のことを忘れさせてくれた。ステーキ屋など金の使いみちに困って思いつきで始めたのだ。決して牛肉に情熱など感じない。しかし、あれほど退屈だと思っていた店の事務所の店長のデスクが、たまらなく居心地のいい場所となった。なぜ仕事の時にだけ吉野愛子を忘れることができるのか、テニスボーイにはわからない。だが、男の仕事なんてこんなもんだ、とテニスボーイは思う。たぶんみんなそうだ、誰もがその仕事に大して情熱など持っているわけではない、女のことを忘れたくて、病気を治したくて仕事をするのだ、うんと昔から、ずっとそうだったに違いない。」
(村上龍『テニスボーイの憂鬱』)
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