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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<右翼を抱きしめて

「……「平和を守れ」「議会制度を守れ」「民族を守れ」という、双方の立場からそれぞれの世界観の理想像に基づく対象の提示が、お互いに同じ言葉を使っているように、「文化を守れ」も敵味方の存在する行為の本質から、相対化せざるをえないが、同時に、相対的価値の絶対化を死によって成就するのが行動の本質に他ならない。いずれにしても共通しているのは、守るという行為の価値が、現状維持に存在しない点である。
 守るべき対象の価値がおびやかされており、従って現状変革の内発性をそのうちに含み、この変革の方向に向って、守るという行為を発動するというのが、その一般的態様でなければならない。もし守るべき対象の現状が完璧であり、博物館の何百カラットのダイヤのように、守られるだけの受動的存在であるならば、すなわち守るべき対象に生命の発展の可能性と主体が存在しないならば、このようなものを守る行為は、パリ開城のように、最終的には敗北主義か、あるいは、守られるべきものの破壊に終るであろう。従って「守る」という行為にもまた、文化と同様の再帰性がなければならない。すなわち守る側の理想像と守られる側のあるべき姿に、同一化の機縁がなければならない。さらに一歩進んで守る側の守られる側に対する同一化が、最終的に成就される可能性がなければならない。博物館のダイヤと護衛との間にはこのような同一化の可能性はありえず、この種の可能性にこそ守るという行為の栄光の根拠があると考えられる。国家の与えうる栄光の根拠も、この心理機構に基づく。かくて「文化を守る」という行為には、文化自体の再帰性と全体性と主体性への、守る側の内部の創造的主体の自由の同一化が予定されており、ここに、文化の本質的な性格があらわれている。すなわち、文化はその本質上、「守る行為」を、文化の主体(というよりは、源泉の主体に流れを汲むところの創造的個体)に要求しているのであり、われわれが守る対象は、思想でも政治体制でもなくて、結局このような意味の「文化」に帰着するのである。文化自体が自己放棄を要求することによって、自己の超越的契機になるのはこの地点である。
 従って、文化は自己の安全を守るというエゴイズムからの脱却を必然的に示唆する。」
(三島由紀夫「文化防衛論」)
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