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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: 右翼を抱きしめて

「先に、私は、三島の文化防衛には「守るべき文化はない」と述べた。このことは、守るべき天皇(制)はないということにもなる。これは三島を素朴に「同志」と見ていた天皇主義者や国粋派右翼にしてみれば驚くべきことだろう。
 文化防衛は、その核心をなす文化・天皇については、きわめてラディカルであり、場合によっては、市民派左翼などは三島に比べれば、保守的であり、その意味でいえば「右派」的でさえあり、極左ラディカルの文化や天皇の全否定さえ容認し得る思想を提示していると述べても過言ではないだろう。……
 ならば、防衛されるべき文化・天皇とは何なのか。三島思想の真骨頂はそこにあるのだが、彼は「形(フォルム)」だという。なるほど文化は「もの」としての帰結を持つにせよ、その「生きた様態」においては「もの」ではなく、また「發現以前の無形の國民精神でもなく、一つの形(フォルム)であり、……従つて、いはゆる藝術作品のみでなく、行動及び行動様式をも包含する」(『文化防衛論』)のである。さらに「日本文化は、本来オリジナルとコピーの辨別を持たぬ」と述べ、端的な例として「伊勢神宮の式年造營」をあげている。……
 ならば「形」としての「文化」は、どこに発現するのか? 簡単にいえば、文化防衛の形姿に現われるのである。すなわち、文化は、そのものとして実体的に存在するのではなく、不在の文化を守る形姿に、形として示現するのである。守るべき対象はなく、ただ守る形姿のみがあり、それが文化を「形」として生むのである。……言い換えれば、どこにもない「花」を守る事行が文化防衛なのであり、そして「文化概念としての天皇」とは、この、どこにもない「花」にほかならない。どこにもない「花」こそが、古今的な和歌の本質的内容であり、三島によれば、その「古典主義の極致の秘庫が天皇」(同右)なのである。したがって天皇制についていえば、現に存在する天皇を守ることではなく(それは「政治概念としての天皇」主義にすぎない)、どこにもない、不在の天皇を守る形姿が、「文化概念としての天皇」を、生み、成らせるのだといえよう。」
(千坂恭二「蓮田善明・三島由起夫と現在の系譜」)
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