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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<ロクな死にかた

「われわれの意識にとっては他人の死だけが存在すると、ハイデッガーはいっている。が、私はそういう現象学的見方も疑わしいと思う。だれかが不在であることと、死んでいることとの違いは、われわれの意識にとっては厳密に区別されないからである。未開人はまず死者をおそれる。それは死者がまだ生きているということであるが、われわれの葬式もなおその観念をとどめている。もともと仏教のようにラディカルな個人主義的宗教は葬礼とは関係ないのだが、それを許容するほかに社会的に存続できなかったのである。
 他人の死が、不在ではなく確実に死であるためには、なにかべつの条件が必要なのであり、したがって死は、たんに物理的な問題でもなければ観念の問題でもない。死はいわば制度の問題である。葬制をもたない社会は存在しない(ヴィーコ)という事実がそれを証し立てている。ある人間が死ぬことは、彼がその一点を占めていた諸関係に空白ができることであり、生き残った者はそれを埋め、彼をしめだして新たに諸関係を再編成しなければならない。そうでない間は死者はまだ生きているのだ。
 私の数少ない経験では、葬式には残酷なところがある。私はそれを葬式が形骸化してきたせいだと思っていたが、本当はそうではなかった。死者を悼むとか悲しむとかいった、人類史において比較的近代に属する観念のずっと底に、葬式がもっている本質がかくされている。それは死者を本当に死なしめること、いわば死者を生きている者の世界から追放することである。だから、死は物理的に考えられる瞬間の事実でもなく、生き残った者の悲哀や喪失といった意識的事実でもなく、一定の幅をもった共時的な出来事である。それは、一つの関係の体系がべつの体系に変形される過程の全体をさす。ひとが死に、そのあとで葬礼があるのではなく、葬礼も死の一部なのである。われわれは時とともに、悲しみを忘れそのひとの不在になれていく。が、そのときにはじめて「死」が完了するのだ。死者はもはや不在者とことなり、生きている者が再編成した関係の体系のなかに入りこむ余地がなくなっている。」
(柄谷行人「歴史について──武田泰淳」)
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