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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<弱者を名付けない

大西 「汝ら人を裁くなかれ」という聖書の言葉があるでしょう。「汝ら裁くなかれ。裁かれざらんためなり」と。人を裁くなということですね、人から裁かれないために。私は聖書はわりあいと尊敬しますが、この部分に関しては間違いだと思う。むしろ、「人を裁け。裁かれるためなり」と言うべきです。そういう覚悟でなければいけないと思う。「汝らのうち罪なきもの石を投げよ」とあるでしょう。あれもわかりやすく言うと、こいつは一千万円盗んだ、しかし、罪なきものが攻撃せよというから、ほとんど誰もできない。例えば一千万円盗んだとか、百十万円盗んだとかいう告発は、「おまえも十万円盗んだ」という告発となって本人に返ってくる。石を投げたとたんに本人に返ってきます。そういうことを含めて、批評というのは、「汝は人を裁け」で、どんどんやるべきだと思います。「おまえ自身はどうか」「いや、俺は前にはそういうことはあったが、今後はせん」と。「批判は甘んじて受ける」と。こういうことだと思う。
スガ そうですね、大西さんの聖書への見方というのは『道徳の系譜』に見られるニーチェ的なものだと思います。……ニーチェ的な意味での「弱者」であってはいけないということですね。ニーチェ的な「強者」として常に批判をするし批判を受ける。もの書きの実行家に対するコンプレックスというのは常に「弱者」の立場に身をおくことですね。
大西 そうですね。したがって、これはもう言い古されたことですけれど、ものごとを被害者意識で捉えたらダメですね。それから、ものを書いて発表することを仕事とする人間は、全力を尽くしていろんなことを知っておかなければいけません。そういう意味では、その人間が、かりに年齢が若くても、あるいは年を取っていても、小説なり批評を書いて発表するということであれば、年が若いからとか経験が少ないからとか老いぼれたからとかということでは言い逃れることはできない。そういう覚悟を持ってものを発表しなければならない。そうすればいい加減なことが書けなくなる。これもある意味で書くことの「不自由」ですね。
スガ 「強者」の方が責任を持たねばならないわけですから。」
(大西巨人×スガ秀実「『言論の自由』をめぐる闘争」)
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