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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<世界がライヴァルで満たされたら

「ルソーが自己に閉じこもることによって幸福の追求をめざすようになったのは、自分の欲望を他者が見抜くことを恐れたからであり、あるいはまた他者とライヴァルの関係に陥ることを恐れたからである。いずれにせよ、ルソーは身近にいる他者の存在によってみずからが傷つくことを恐れた。彼は自分の欲望によって他者を傷つける可能性を問題にする以前に、他者から身を引いた。他者からの自己の隔離が、ルソーの直接性信仰を容易にしたことは言うまでもない。しかしこのような自己への閉塞による幸福が十分に実現するためには、欲望が総体として弱まる老年という条件が必要であることを、ルソー自身も認めていた。壮年であった一七五〇年代の半ばにルソーは次のように書いている。「欲望がわれわれを互いに接近させるにつれて、情念がわれわれを互いに分裂させるので、われわれが同胞の敵となればなるほど、同胞なしでは過ごすことができなくなる」と。ここではルソーは物に対する欲望(besoins)について語っている。だが人間に対する欲望についても同じことが言えると主張するなら、ルソーもこの主張に同意するだろう。ルソーと同様、ドストエフスキーにとっても、欲望する主体、欲望の客体、ライヴァルから成る三人生活が重要なテーマであった。初期の作品『白夜』以来、このテーマは繰り返し現われてくる。しかしすでに暗示したように、ドストエフスキーにおいては、主体のライヴァルとの関係は、ルソーの場合よりもはるかに緊密である。「同胞の敵となればなるほど、同胞なしでは過ごすことができなくなる」というアンビヴァレントな関係は、ルソーより以上にドストエフスキーの関心事であった。主体の虚栄心はもちろんのこと、自負心でさえも、ドストエフスキー的三人生活の中では完璧に打ち砕かれる。なぜなら、ドストエフスキー的三人生活の中の主役は、概して欲望の客体とではなく、この客体を争うライヴァル──しかも一歩先んじているライヴァル──と同一化してしまうからである。
 ルソーにおいては、主体はライヴァルから遠ざかることによって欲望を変質させ、欲望の客体との同一化へ傾くので、自尊心は温存される。……そのためにルソーの〈溶解〉志向は主として自然とのあいだに展開される。これに対してドストエフスキーにおいては、「存在の感情」は他者との共存の中で現われてくる。主体とライヴァルとのあいだには、同じ欲望という共通の源泉からくる苦悩の認知と自尊心の崩壊とを介して、容易に〈溶解〉志向が成立する。ルソーの言う共苦(commiseration)の感情が強烈に両者を襲う。特定の他者へ向かう具体的な欲望から、この世で生きることという抽象的な欲望へと視点が移されると、人間の苦悩への礼拝とでも名づけうるような、ドストエフスキーに特有の連帯意識が現われてくる。人類への愛は、集合的な理想我への愛すなわち祖国愛ではない。それは〈超越〉志向と無縁の愛である。この点で、ドストエフスキーはルソーと決定的に分かれる。ドストエフスキーは個人ルソーの〈溶解〉志向の基礎にある「存在の感情」を極限まで展開したと言えよう。ニーチェが個人ルソーの自尊心をさらに高昇させたとすれば、ドストエフスキーは個人ルソーの「存在の感情」をさらに拡散させたのである。」
(作田啓一『ルソー 市民と個人』)
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