「話を「人間」に戻して、もう一度、最近の応募小説や創作学校などで書かれている習作段階の小説に出てくる登場人物を見てみると、被害者意識を持っている主人公がとても多いことに気がつく。そういう小説では、母と娘、夫と妻、姉と妹といった一対の人間関係が軸になるのだが、二人のうち主人公はつねに被害者で、もう片方は主人公を攻撃する加害者という役が振られていて、ひたすら両者の性格を証明するようなエピソードがいくつもの回想によって綴られていく。
小説をスタートさせるときの設定としては、そういうのもないわけではないのだろうが、問題は、被害者と加害者という関係が最初から最後まで変わらないことだ。攻撃を加える側は、最後まで攻撃し続ける人物(意地が悪かったり、過度に自己中心的で相手への思いやりがなかったり、主人公と比べて段違いに順調な人生だったり、とパターンはいろいろだが)としか描かれないし、攻撃を加えられる主人公は、最後までビクビクして、耐え忍ぶ人物(その結果、かなり屈折した人物)として描かれる。
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しかし、現実の人間関係というのは、それほど単純に色分けすることはできない。仮に、どちらかが攻撃的な傾向があり、もう片方が受け身に回ることが多かったとしても、そういう力関係がずっと持続するということは特殊なケースだろう(小説とは極端で特殊な状況を書くものだと誤解している人が多いのだが)。現実には、「あっ、これで相手とはうまくいくかもしれない」という瞬間がかならずあるもので、だいたいの時間はもっと緩んでいる。……
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さらに言うと、登場人物の心理が変化することが小説内での正確な意味での「時間」であり、それはストーリーに優る。人物の心理が変わらず、ただ同じ方向に進んでいくだけでは、それはストーリーに仕立てても「時間」は流れない。
応募小説や習作に、登場人物の人間関係が、一方的かつ単純な力関係で終始する小説が多いのは、もちろん技量(粘り強く何度も書き直したり、人間関係を作り直したりする態度も含めた、広い意味での技量)が不足していて、単純化されたことしか当面書けないということも原因なのだろうが、それ以上に、小説とはそういうネガティヴな人間(や人間関係)を書くものだと思っているからではないか。」
(保坂和志「人間を書くということ」)