「手紙はまことに融通のきかないものであるが、事柄をいわば第三者化してしまうという、ありがたい能力をもっている。実際に面と向かっている時には、人は自分自身のこと相手のことをそうそう第三者化できるものでもないし、また、第三者化してしまってよいものでもない。男女の事柄においては、第三者化はたやすく戯画化に通じる。ところが自分のふるまいをその場で戯画化していく能力には限りがあり、実戦においてはとうてい信頼できたものではない。それにひきかえ手紙はしょせん《書かれたもの》であり、その分だけ自由というか気楽というか、実際の場面ではとうていできない戯画化をかなり奔放にやってのける。そのことでまた手紙の力を買いかぶらないように用心さえすれば、手紙はバランス回復の道具として有効なようだ。
たとえば、二枚目の事柄を二枚目半にゆるめてくれる(もちろん、工夫がなければ、手紙によって、ますます無惨な二枚目になる)。そう言うと、自分は二枚目で恋愛をするわけではない、と心ある人は笑うだろうが、しかし数ある人間の中からひとりの男とひとりの女が、意思で選んだのか、逆に偶然という諧謔家によって選び出されたのか、お互いにほかと取り替えが絶対にきかないかのようにこだわっているのは、本人の容貌にかかわらず、羞恥心の繊細さにかかわらず、笑っているつもりでも冷静なつもりでも、固い顔つきをどうにもほぐせない二枚目の事柄なのだ。
むろん三枚目としてふるまい通せればこれに越したことはない。しかしそれは達人のやることで、大根役者のわれわれは高望みするべきでない。」
(古井由吉「ああ、恋文」)