「文章を書くとき、ほとんどの人はふだんのその人ではなくなって、あるタイプの人になってしまう。
最近、ある雑誌で昔からの友人が書いたエッセイを読んで、つくづくそう思った。彼は、たとえば私への手紙なら、昔からのしゃべり方そのままのガシャガシャした調子で書いてきて、それがとても彼らしく、いい感じなのだが、雑誌に掲載されていた彼のエッセイは、年相応の分別ある大人の文章になってしまっていた。
エッセイの場合、こういう装いは多少はやむをえないとしても(だいたいその友人は文章を書くことが本業ではないのだ)、小説でこれをやってしまうと、とてもひどいことになる。
小説の場合、あるタイプを装うというのは、頭を“小説モード”にしてしまうことだ。たとえば言葉づかいひとつとっても、投稿小説ではふだん自分が使っている言葉ではなく、小説用の言葉を使っているものが非常に多い。極端な例では「病を得た」「哀れをそそる」なんて、ふだんはまず誰も口にしないような“小説言葉”が使われていたり、今の風俗を軽くスケッチしたような小説にも、「彼女の瞳が濡れていた」「僕はずっと立ち尽くしていた」なんて、ありがちな小説言葉が多用されていたりする。
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その結果、どこかで読んだような、きわめてステレオタイプな小説が出来上がってしまうわけだが、書いている本人はそうでないと小説ではないと思っている。つまり、小説の外見に守られることで、小説を書いているつもりになっている。明治期の言文一致小説への闘いとか、それ以降もずうっと続いている書き言葉と話し言葉との闘いとか、小説家はたえずこの問題と直面してきて、その闘いが小説を小説たらしめる原動力のひとつとなってきたのだ。“小説言葉”を使ったら、その小説は、小説でなく、すでにあるものになってしまう。
小説は、ふだん自分が使っている言葉で書くべきものだと私は思う。そうでなければ、小説を書きながら「小説とは何か?」を考えたり、その結果を自分にフィードバックさせたりすることができない。」
(保坂和志「テクニックについて」)