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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<文体における逆説

「……文体の獲得なしに、作家は、それぞれの文化の偉大な伝統に繋がりえない。「文体」において、伝統とオリジナリティ、想像と熟練、明確な知的常識と意識の閾下の暗いざわめき、努力と快楽、独創と知的公衆の理解可能性とが初めて相会うのである。これらの対概念は相反するものである。しかし、その双方なくしては、たとえば伝統性と独創性、創造と熟練なくしては、読者はそもそも作品を読まないであろう。そして、「文体」とはこれらの「出会いの場」(ミーティング・プレイス)である。
 二十世紀後半の文学の衰微は、外的理由もさまざまあろうが、「文体」概念を「テクスト」概念に置換したことにあると私は思う。それによって構造主義は既成テクストの精密な分析にすぐれる一方、第一級の文学を生産するのに失敗した。あらゆる弁明によってもこの失敗を覆い隠すことはできない。……
 「文体」を獲得して初めて、作家は、机に向かわない時も作家でありうる。なぜなら、「文体」を獲得した時、言語は初めて、書かず語らずとも、散策の時も、友人との談話の時も、電車の中でも、まどろみの中でも、作家の中で働きつづけるからである。
 「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(ハーバート・リード卿が「ゲシュタルト・フリー」といったもの)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。
 その獲得のためには、人は多くの人と語り、無数の著作を読まなければならない。語り読むだけでなくて、それが文字通り「受肉」するに任せなければならない。そのためには、暗誦もあり、文体模倣もある。プルーストのようにパスティーシュから出発した作家もある。
 もちろん、すぐれた作家への傾倒が欠かせない。……傾倒は、決して、その思想ゆえでなく「言語の肉体」獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだが作家の「取り巻き」に終わるであろう。作家が生きていようと、死者であろうと、変わりはない。実際、思春期の者を既存作家への傾倒に向かわせるものは決して思想の冷静な吟味によってではない。それは、意識としてはその作家のしばしば些細な、しかし思春期の者には決定的な一語、一文、要するに文字通り「捉える一句」としてのキャッチフレーズであるが、その底に働いているのは「文体」の親和性、あるいは思春期の者の「文体」への道程の最初の触媒作用である。
 …………
 私の発言が無文字社会の文学には該当しないことは定式の厳密性のために言っておかねばならない。無文字社会においては「文体」は存在しない。無文字社会においては、同じ文の複製は原理的に不可能であり、文学はそのつど再誕生しなければならない。それに近いものを現代に求めるとすれば「俳優」であろう。しかし、文字社会においても文体の獲得のためには、一度、無文字社会という深層に降りてゆかなければならない。また現にそうである証拠の一つは私が先に挙げたようにいったん「文体」が獲得されれば、それは地下鉄の中でもベッドの中でも働くという事実である。」
(中井久夫『アリアドネからの糸』)
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