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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<ためされる世界愛

「現代的な事態とは、われわれがもはやこの世界を信じていないということだ。われわれは、自分に起きる出来事さえも、愛や死も、まるでそれらがわれわれに半分しかかかわりがないかのように、信じていない。映画を作るのはわれわれではなく、世界が悪質な映画のようにわれわれの前に出現するのだ。『はなればなれに』でゴダールはいっていたものだ。「現実的なのは人々であり、世界ははなればなれになっている。世界のほうが映画で出来ている。同期化されていないのは世界である。人々は正しく、真実であり、人生を代表している。彼らは単純な物語を生きる。彼らのまわりの世界は、悪しきシナリオを生きているのだ」。引き裂かれるのは、人間と世界の絆である。そうならば、この絆こそが信頼の対象とならなければならない。それは信仰においてしか取り戻すことのできない不可能なものである。信頼はもはや別の世界、あるいは変化した世界にむけられるのではない。人間は純粋な光学的音声的状況の中にいるようにして、世界の中にいる。人間から剥奪された反応は、ただ信頼によってのみとりかえしがつく。ただ世界への信頼だけが、人間を、自分が見かつ聞いているものに結びつける。映画は世界を撮影するのではなく、この世界への信頼を、われわれの唯一の絆を撮影しなくてはならない。……これはすでにパスカルからニーチェにいたる哲学の大いなる転機であった。知のモデルを信頼によっておきかえること。しかし信頼が知にとってかわるとすれば、それは信頼があるがままのこの世界に対する信頼となるときである。ドライヤーとともに、ついでロッセリーニとともに、映画は同じ転機を通過する。ロッセリーニは晩年の作品で、芸術は子供じみており、不平がましく、世界を喪失したまま満ち足りていると非難して、芸術に興味を失ってしまう。生を不滅にしうる信頼を再びわれわれに与えてくれるような倫理を、彼は芸術のかわりにうちたてようとする。……確かなのは、信じるということは、別の世界を信じることではなく、改造された世界を信じることでもないということである。それはただ単純に、身体を信じることである。言説を身体にもどすことである。そしてそのためには、言説以前の、言葉以前の、事物が名づけられる前の身体に到達しなくてはならない。「ファーストネーム」そしてさらに「ファーストネーム」以前に。アルトーも、他のことをいっていたわけではない。つまり肉体を信じること。「私は生を失ってしまい、あらゆる手段によって生にその場所を取り戻してやろうとする人間である」。……われわれの信頼とは、「肉体」以外のものを対象にすることはできず、われわれが身体を信じるためには、非常に特別な理由が必要になる。われわれは身体を信じなくてはならないが、生の胚芽を信じるように、聖骸布やミイラの包帯の中に保存され、死滅せずに、舗石を突き破って出てくる種子を信じるように、それを信じなければならない。それはあるがままのこの世界そのものにおいて、生を証言するのである。われわれは一つの倫理あるいは信仰を必要とする。こんなことをいえば、馬鹿者たちは笑いだすだろう。それは他の何かではなく、この世界そのものを信じる必要であって、馬鹿者たちもやはりその世界の一部をなしているのだ。」
(ジル・ドゥルーズ「思考と映画」)
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