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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<ロクな死にかた2

 ……僕は、小島さんがなんだか苦しんでいる、そのなんだか苦しんでいるということは、さっき言った、コンパスで円を描いて、そしてその円周が内部についているということにすると、中心が一点に決まってしまって、非常に書きやすいわけですね。そしてまたそういうもののなかにも傑作はもちろんあります。われわれは、ものを考えるとか、とらえるときには、そういう考え方をしなければちょっと困ることがあるわけですね。
 ところが、われわれの現実というものは、その円周に類するものは、内部にはついていなくて、外部についているわけですね。すなわちどうも演劇ではないということになるんです。それではものたらんということになって、なんだかもう一つ違うんじゃないか。その矛盾に苦しんでいるんじゃないか。
 …………
 というのは、人生をとらえる場合、いわゆる近傍〔任意の半径で描かれた円の、境界線を除いた内部。境界線がないので内部から見ると無辺際〕としてはとらえないで、円形のなかで幾何学を組み立てるわけですね。それは中心が決まっていますから。ところが、どうも待てよ、われわれがもっと根源的なものに立ち返ると、どうもわれわれは現実に近傍のなかにいるのであって、近傍のなかにいなければ、死生観というようなものも成り立たないんですね。というのは、近傍というのは円周が外部についていますから、内部には境界がないんですから、だからそれは無辺際であるというんです。無辺際であると思っているから生きておれるわけですね。
 だから、それは小説などにも、どうしてもとらえるためには、近傍としてどこでも中心になれるというようなとらえ方は、してみても、結局は劇場としてそれをとらえ、それでそこのなかに、もののあわれというか、なんというか、もの悲しいものが残るわけですね。それは実際は、われわれは近傍にいるのに、近傍としてはそれをとらえることができないという、その根源的矛盾から悲しみというものはわいてくるんじゃないかと、僕は思うんです。あるいは不満などもわいてくるわけです。いかなる方法をとっても、小島さん、わいてきますよ。たまにうまくできたなと思って、ニヤリと笑うこともあるでしょうけれども、それは本当の満足じゃないんですね。
 われわれは実際あした死ぬかもわからんのに、それなのにいつまでも生きるような考えで、泣いたり悲しんだりしていますね。その人が生きている間じゅうは、生としての悩みや喜びで生きておるわけです。生きている間は生きているわけです。だから、それがないと、われわれは、あした死ぬとか、あさって死ぬとかいうふうに、境界線が内部についてしまえばなってしまうんです。わかったら、これはもうただごとではない。ともあれ、悲しみも喜びも生においてあるということは、そこにはものの境界がないというところにあるんです。……」
(森敦+小島信夫『対談・文学と人生』)
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