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Lubricate us with mucus. ──2nd season 飛翔編

   Be fierce as fire is fierce.

( ゚Д゚)<人間のようなもの

「この小さな生物学的存在が生き延びるということ、しかも、狼あるいは熊の子になった森に住む子供(十八世紀の王侯の宮廷ではそういう見世物があった)として生き延びる代わりに、(幼年期におけるあらゆる死のなかで人間としての死、人間-になり損ねたことを認可する死がどれだけ多かったことか、それはともかくとして、そうしたあらゆる死を免れたことによって)人間の子供として生き延びるということ、これこそ、すべての人間が大人として乗り越えてきた試煉であった。彼らは永久に記憶喪失になりながらも、この勝利の証人であり、しばしばその犠牲者でもあった。しかも、人間としての生死をかけたこの戦いから受けた傷、障害、疲労感を最も押し黙った、すなわち、最も目立つみずからの内部にかかえながら。彼らのなかには、大部分がそうであったが、ほとんど無傷のままそこから抜け出ることのできた──、あるいは少なくとも、大声でそのことをはっきりと知らせることに固執する者もいた──。これらの退役軍人たちの多くは、一生涯このことを刻印されたままだった。ある者たちは、もう少し後になってみずからの戦いがもとで死ぬことになる。彼らの古傷が精神病の爆発のなかで、狂気、「陰性の治療反応」の究極的な痙攣のなかで再び口を開けたのだった。他の者たちは、こちらの方が数が多いのだが、「器質上の」衰弱という変装のもとでごく「正常に」死ぬことになる。人類は戦争記念碑に公式の死者しか書き込まないものだ。つまり、狼としての人間や神としての人間しか引き裂かれ犠牲として捧げられないような人間の戦争において、ちょうどよい潮時に、すなわち、後日、人間として死におおせた者だけがそこに書き込まれるのだ。生き延びた者だけにたいして精神分析は、もう一つの闘争に、回想録も記念碑ももたない唯一の戦争に専心する。それは、人類がいままでおこなったことがないような振りをし、常にあらかじめ勝ったものと考えている戦争のことであった。なぜ勝ったかと言えば、ただ単に人類とは、この戦争を生き延び、生きて人間の文化のなかで文化として産まれることでしかないからである。それは、一瞬ごとに一人一人の子においておこなわれる戦争であって、彼らは、各自みずからのために、孤独のなかに死に抗して投げつけられ、歪められ、投げ返されながら、哺乳類の幼虫を人間の子供として、主体として作りあげる長征を強行軍のように踏破しなければならないのである。」
(アルチュセール「フロイトとラカン」)
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