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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<死の代行

「失うものは何もないのだから、もう傷つくことはないだろう、デクスターはそう考えてきた──しかし、たったいま確実に何かを失ったのだと思い知らされた。かりに自分がジューディ・ジョーンズと結婚してその容色が衰えてゆくのをわが眼でたしかめたとしても、結果はおなじだったろう。
 夢ははかなく消えた。デクスターの心にぽっかりと穴があいた。わけがわからなくなったかれは、掌をまぶたに押しつけ一幅の絵を思いえがこうとした。シェリー・アイランドに打ち寄せる波、月光に照らされたベランダ、ゴルフコースのギンガムチェック、乾いた太陽、彼女の頸すじで黄金色にかがやく柔らかいうぶ毛。彼女の口はかれのキスで湿りけを帯び、彼女の眼は憂愁をたたえて哀れをさそい、彼女のすがすがしさは、けさおろしたばかりの上質のリンネルのシーツさながらだった。ああ、それらがみな、もはやこの世界に存在しないとは! かつてはあったものが、いまはもうないのだ。
 涙がデクスターの頬をつたって落ちた。絶えて久しくなかったことだ。しかし、いまの涙は自分自身のためのものだった。口も眼も震える手も、気にかけてはいられなかった。気にかけたかったけれど、気にかけてはいられる状況ではなかった。なにしろかれはずっと遠くまできてしまい、もう後戻りできなかったからだ。門は閉ざされ、太陽は沈み、美といえば、時の流れに耐えぬく鋼鉄がもつ灰色の美ばかり。デクスターが心にしまってとっておけたはずの悲しみさえも、幻想と青春と豊饒な人生に満ちあふれたあの国に置きざりになってしまった。あの国では、かれの冬の夢がいまを盛りと咲きほこっていたのだ。
「あれはずっと以前のことだった」とデクスターは言った。「ずっと以前には、ぼくのなかに何かがあった。だが、いまはもうなくなった。いまはもうない、なくなってしまった。泣いてもむだだし、嘆いてもむだだ。失ったものはもう二度とよみがえることはないのだ」」
(スコット・フィッツジェラルド「冬の夢」)
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